メッセージ - C年 降誕節

「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」ルカ2,15-16

お正月を迎えて、これから始まろうとしている新しい年は、過ぎ去った年よりも、良い年になるはずだという希望を抱いている人が大勢いるようです。この希望が新年を迎える挨拶の中でよく表されています。けれども、何か良いものを手に入れるために、また、他の人に善を与えるために、それを願望するだけでは十分ではないということを今までの体験からよくわかっているはずです。

マリアは完全に神を信頼していて、神に自分自身をゆだねました。神に忠実で、従順であったがゆえに全世界の救い主の母、神の子の母となりました。それによってマリアは、自分の最も深い望みを実現したとともに、すべての人々に神の子イエスという最善の贈り物を与えることができたのです。

私たちは、マリアのようにこの愛に愛を以て応えるならば、最高の善である神の愛にあずかるようになります。同時に、私たち自身が、他の人のために神の命の泉になります。それによって、私たちが新年を迎える挨拶の中で表している希望や願望が、本当に実現されるのです。良い一年となりますようにお祈りいたします。

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メッセージ - C年 降誕節

今日の祝日には様々な朗読を選ぶ選択肢が与えられています。色々な聖書箇所から家族について述べられていることを伝える朗読です。言うまでもなく、家族は古代人、中でもユダヤ人にとって基本的な価値でした。現代も、教会の社会教説の言葉を借りるならば、家族は社会の細胞です。何故ならば、もちろん、新しい命が授けられ、育まれる環境を提供するからです。神の言が人となられる時に、ただ奇跡的に人間の姿で現れたのではなく、他の人と同じように最初の瞬間から私たちの内の一人として育てられることを拒もうとはしませんでした。

さて、聖家族には何も苦労がなく、何でも神様の計画によって成し遂げられいていたから問題は何一つなかったと美化するわけにはいきません。もしかして他の家族よりも試されて、困っていることもあったのかもしれません。それにもかかわらず、聖家族は遠い模範どころか、今の私たちの家族も実現できるような価値や徳を体現していました。今日の朗読は特に次の心構えについて述べています。まず、敬虔さ。マリアもヨセフも常に神の掟に従い、自分たちだけ特別だという意識を持たず、熱心なユダヤ教徒の一人として暮らしていました。それから、謙遜と従順。神の子は、周りの人の目にはヨセフの息子として育ち、職業を学んでいましたが、必要な時まで両親に聞き従っていました。子供は自立する前におよそ親を見て、基本的な態度を学ぶ必要があります。最後に、理解できないことを思い巡らす忍耐。特にマリアは神の言葉を吟味し、知性で理解できないでいながらも、それを心に抱きしめ、それを噛み砕いたり、理解できる時を切に待ち望んでいたという姿。人生の様々な困難が訪れた時に、すぐ意味が分からなくても、それを探し求める、神の導きがこれからも与えらえると望む態度に他なりません。また、何よりも家族で相手の違いを受け入れられない場合でも、とにかく話し合うことが重要であり、ナザレの家族がこの対話の能力の模範でもあります。

なので、今日の祝日から学べることは、家族とはすごく親しい、自然に愛することができる平等な人同士の集まりではなく、お互いを必要としている人々の共同体であり、相手を自分よりも大切に思う、いや、相手をもう一人の自分と見なす場だということです。

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メッセージ - C年 降誕節

ヨハネ福音書の冒頭では、主イエス・キリストのこの世への訪れを、マタイ福音書やルカ福音書のような赤ん坊の誕生の場面ではなく、神と共にあり、神であった言(ことば)が、暗闇の中ですべての人を照らす光として世に来られた、と描写しています。

降誕祭・クリスマスに私たちはイエスの誕生を祝いますが、それは単に微笑ましい新しい命の誕生を祝うものではなく、神の国を告げ知らせた方、貧しい人と共に生き、病の人・傷ついた人に手を差し伸べた方、十字架の上で私たちのためにご自分の命をささげられた方が、世に来られたということを思い起こして祝います。使命を持ってこの世に来られた方の生き方を心にとめながら、私たちはその方の誕生を祝うのです。

ですから、そこに私たちは、イエスと私自身、イエスと人々、イエスと現代の世界という関係性を見い出しながら、そしてそれがどのようなものであるかを聖母マリアのように考えながら、幼子イエスの誕生に思いをはせます。このことが、通常の赤ちゃんの誕生の祝いとの違いです。

クリスマスは幸せな雰囲気をもたらしてくれるものですが、キリストを信じる者として、その生と死と復活までも含めて、主の誕生を祝いたいと思います。

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メッセージ - C年 待降節

第一朗読 ミカ5:1-4a

第二朗読 ヘブ10:5-10

福音朗読 ルカ1:39-45

「マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した」。マリアはエリサベトに挨拶しましたが、どのような言葉で声をかけたのでしょうか。ルカはそれについて何も伝えていません。その代わりに、ルカが伝えているのは、その挨拶を聞いたエリサベトの中に起こったことです。「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった」。それはエリサベトが分かるぐらい、喜びのおどりでした。「あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました」。

エリサベトの胎内に喜びおどったのは、やがてイエスの到来を準備する洗礼者ヨハネです。母エリサベトの胎内にいた洗礼者ヨハネはマリアの挨拶の声に反応しました。それは、マリアの胎内にイエスが宿っているからです。マリアの胎内にいるイエスの存在は人と人との関係を変えていくのです。マリアの胎内にいるイエスは、マリアとエリサベトの関係を親類以上の関係、すなわち信仰によるつながりという次元に高めてくれるのです。マリアの胎内にいるイエスは、エリサベトとその胎内の子の関係を親子以上の関係、すなわち救いの希望の実現を共に賛美する共同体として結んでくれるのです。マリアの胎内にいるイエスは、その到来を準備するヨハネを愛によってへりくだる喜びで満たしてくれるのです。

第一朗読のミカの預言にあるように、マリアの胎内にいて、エフラタのベトレヘムで生まれる「彼は立って、群れを養う。…。彼こそ、まさしく平和である」。イエスが私の内にいるならば、私は平和の道具となれるのです。マリア様のように、イエスが私の中に生まれるならば、私は人と人との繋がりをより高い次元に結ぶ道具となることができるのです。

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メッセージ - C年 待降節

テーマ :主は人を守る

第一朗読:ゼファニヤ3, 14-17

ゼファニヤはユダ王国のヨシヤ王の時代(紀元前641-609)に、預言者として宗教 的な活動を行った。紀元前7世紀からユダ王国はアシリヤ帝国の属州であったので、 この王国の社会、政治、宗教は改革が必要になっていた。ヨシヤ王にこれらの改革 をさせるために、ゼファニヤは活動した。特に、宗教的な改革をするようにゼファ ニヤは強く預言した。この予言には二つの部分があった。最初の部分(大きな部分 )は脅迫であった(1, 2-3, 8)。最後の部分(短い部分)は慰めである (3, 9-20)。第一朗読の言葉はユダ王国の将来についての慰めの預言である。

第二朗読:フィリピ4, 4-7

フィリピの信徒への手紙は、パウロが逮捕された時に書かれた書物である。一般的 に、それはローマの刑務所で生活していた時(紀元後59-61年)だと思われている 。しかし、この手紙の内容は明るい。信仰が強いパウロは自分がイエスを信頼して 神に感謝するのではなく、信者がいつも彼と同じことをするように第二朗読の言葉 の中で命じた。

福音朗読:ルカ3, 10-18

洗礼者ヨハネは、人々が自分の考え方と生活を直せるように、さまざまな役に立つ 教えをした(3, 10-14.18)。民衆は洗礼者ヨハネの教えを理解することができた(3, 15)。しかし、人間の心を直すためには完全な社会の制度を作ることが不足し ているということをヨハネは理解したので、聖霊の力を人間に与えられるイエスの ことを述べ伝えた(3, 16‐17)。

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