メッセージ - B年 四旬節

今日は「枝の主日」である。わたしたちにとって棕櫚の葉の意味は何か。まず、棕梠の葉は春の象徴である。春は冬に置き換わるという哲学に基づいている。冬といえば、植物が一時的に枯れたり、冷たさや苦みなど、冬にしか味わえないさまざまな困難が伴う。春の到来とともに、わたしたちが感じる困難は一つ一つ消え、美しさと平和に取って代わられる。冬に代わって春になると、イエス・キリストが助けに来て、平和と喜びの新しい雰囲気を与えてくれる。

次に、棕梠の葉は勝利の象徴である。これはギリシャ・ローマの伝統に基づいている。勝利の象徴の意味は、手を振ることに似た棕梠の葉の形に基づいており、手のひらを振る様子は勝利の行列に似ている。象徴的に、棕梠の葉は死に対するイエス・キリストの勝利を示すことを意味する。

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「枝の主日」の最も深い意味は、人生の苦しみにどのように対峙していくかということである。苦しみも侮辱も受けずに大きくなることは、それが多くの人の夢である。残念ながら、そういうような生活はない。苦難の道を通らずに大きくなる夢は、それは何もしようとしない怠惰な人の空想に過ぎない。人生は松明のようなものである。軽蔑、侮辱、苦しみは、松明を灯し続ける油にたとえられる。侮辱や苦しみを避けることは、人生を役に立たない空き缶のようにすることを意味する。

「一年に三日だけ良いことがあれば、あなたは地球上で最も幸せな人である」という話を聞いたことがある。一年は三百六十五日がある。三日間だけ良いことがあるとすれば、残りの三百六十二日は当然苦しい日々である。この話しを考えれば、人生における侮辱や苦しみは当たり前である。だから、侮辱や苦しみに翻弄されたら、別にしけた顔をしなくても良い。

人生のすべての問題は、その形がどうであれ、解決策がなければならない。出口のないバンカーはない。明けない夜はない。どんな苦しみも新しい苦しみを生み出すことよりむしろ、人生の知恵を生み出す。人生の諸問題は決して新しい問題を孵化させないが、生命力を孵化させる。人生の問題には、人生を破壊する力はない。人生の問題は、人生に力を与えるためだけに存在する。人生の問題は、人生に強靱な筋肉を提供するためだけに存在する。

木には嵐が必要で、寄生虫の住みかとしてのみ機能する乾いた枝が取り除かれる。よりよく生きるために、嵐が必要である。人々がさまざまな生活上の問題に直面すると、脳の最良の部分が機能する。人生に訪れた苦しみを決して軽視してはならない。その苦しみはわたしたちが人生に集中するためにそこにある。

苦しみは神聖な真実である。苦しみがそれほど神聖に尊重されるなら、どれだけ多くの幸福が得られ、どれだけ進歩し、どれだけ成長できるだろうか。幸福だけではなく苦しみも人生を強化する。理想を潤すのは平和だけではなく、災害も理想に潤いを与える。成功は、失敗に見舞われたときの深い感謝に根ざしている。

苦難の道を経ない偉大さは魅力的ではない。それなのに、なぜわたしたちはまだ苦しみの道を拒否するのか。苦労せずに、達成されたものは役に立たない。狡猾に何かを手に入れるであれば、永遠にそのものに束縛されるに過ぎない。わたしたちが人生で得たものは、わたしたちの人生をより有意義なものにするべきであり、負担を重くするものではない。

人間は皆「問題」や「苦しみ」に直面する時それらのことに反応し、失くそうとする。退屈を失くすために食べる。飽和を失くすために娯楽を捜す。病気を失くすために薬を飲む。これは、多くの心理学者が認めているように人生に抵抗する具体的な形である。あなたが抵抗するものは持続する ―  what you resist persist。だから、わたしたちはよりよく生きることができない。わたしたちは暗いトンネルからなかなか出ることができない。わたしたちは何事にも抵抗し続けるからである。抵抗に満ちたほとんどの人の生活とは異なり、瞑想の道を歩む人は抵抗しないように教えられている。裁定せずに知ること。区画化せずに見ること。判断せずに聞く。痛い、健康、嬉しさ、悲しさ、退屈等すべてありのままに受け入れる。賢者たちが言うように「すべての波を取り除くと、海洋を失う。」

英語の「understanding」は、「分かる」という意味である。逆にするとstanding underになる。「下に立つ」という意味である。机の足のように、重くても机を支えるためにしっかり立つ。瞑想家も同じである。彼らは人生の問題に直面した時すぐに失くそうとしない。苦しみは天罰だと彼らは一切考えない。彼らは「人生の問題」や「苦しみ」などに出会った時、謙虚に受け入れ、その問題が起こった理由を丁寧に捜し続ける。そうすることによって最終的に「自己中心」があらゆる人生の問題の源であることをはっきり悟るだろう。自己中心になればなるほど、より苦しくなる。自己中心が小さければ、問題は軽くなる。抵抗するのが好きなのはエゴイズムである。

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失敗したときの 一つの助けは、成功したときの多くの拍手より価値がある。イエスがエルサレムの町に入られると、誰もが喜んでイエスを迎えた。しかし、数日後、誰もがイエスから離れていった。わたしたちがすべてを持っているとき、誰もがわたしたちがまだ一つの家族であることを認める。しかし、すべてを失ってしまうと、家族でさえあなたを家族の一員として認めなくなる。人生には永遠の友も敵もいなくてあるのは永遠の利益だけである。

 
メッセージ - B年 四旬節

イエスについて語る四つの福音書が聖書全体の中心であるならば、福音書全体は今日のヨハネ福音書に出てくる「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉に要約出来ます。教会の改革者ルーターはこの箇所を「縮小された福音書」と称しました。福音書に語られるイエスの言葉と業、そして聖書全体で語られる救いの歴史はこの一言でまとめることが出来ます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。これこそが全ての人にとっての「福音、良い知らせ」です。

その愛は歴史の中で実現しています。第一朗読にあるように、イスラエルが神に背き、神の愛を裏切っても、神は彼らを見捨てることはありません。神に背いた結果、彼らは捕囚としてバビロンに連れて行かれました。しかし、神はペルシアの王キュロスの手を通して、彼らをエルサレムに連れ戻しました。そして、イスラエルの民だけではなく、パウロが第二朗読で言うように、世を愛された神はその独り子イエスによって罪のために死んでいた私たちを救ってくださいました。イエスを通して私たちは神の愛と慈しみを体験することが出来ます。

しかし、戦争や災害や病気など極限の苦しみの時に、神の愛を感じ取ることができないのが私たちの日常の現実です。先週、私の従姉妹は乳ガンで亡くなりました。病院に連れて行かれた時はもう手遅れで、すぐに家に返されました。彼女は数年前に夫を亡くしました。女一人重い障害の息子を育ててきた彼女にとって、なぜ自分だけがこんなに苦しまなければならないのか、と神様に訴えました。電話で話した時に「神様は不公平じゃないか。私の何がそんなに悪いのか。私って神様の前にそんなに醜いなのか」と泣きながら話していました。私は返す言葉がありませんでした。痛みを和らげるための装置も受けずに、大変苦しんでいました。最後には意識がなくなり、そのまま息を引き取りました。

こんな時に、神の愛や慈しみは単なる慰めの言葉にしか聞こえないかもしれません。それでも「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という事実は変わりません。その独り子ご自身は十字架の上で苦しみの中で息を引き取りました。日々苦しむ私たちと共に。日々苦しむ私たちのために。

 
メッセージ - B年 四旬節

第一朗読(出エジプト20:1-17)は有名な十戒の箇所です。十戒はイスラエルの人々にとって神の民となることを選び、そのために従うべき規範でした。。申命記にある、もう一つの十戒の既述とは異なっていて、この出エジプト記版の十戒の特徴となっているのは、安息日を聖別する理由として「主が創造の後に安息日を聖別されたから」ということを挙げている点です。現代の私たちにとっても同様に、神の子として「聖なる者となる」というのは、四旬節の重要なテーマの一つであり、聖なるものに立ち返る時を大切にします。

第二朗読の第一コリント書(1:22-25)では、十字架につけられて死んだキリストの惨めに見える姿が、私たちにとっては逆説的に強さであり、神の知恵である、と語られています。信仰のない人にとっては愚かさであり、つまずきであっても、キリスト者である私たちは大切なものを見失わないようにしなさい、という呼びかけです。

福音朗読(ヨハネ2:13-25)では、いわゆる「神殿の清め」の出来事が語られています。「祈りの場、神との出会いの場であるはずの神殿が商売の家にされている」というところから、更に「本当の神殿とは建物ではなく、そこに神の御旨と働きが見出されるイエスご自身である」というところにまで議論が進みます。

「神の民になるとはどういうことなのか」「自分にとって本当に大切なことは何か」「キリストの姿が私に語りかけるメッセージは何なのか」「どこで私は神と出会うのか」など、いずれの朗読箇所も、キリスト者としての自分のアイデンティティと信仰の中心を見直す問いを私たちに投げかけています。

 
メッセージ - B年 四旬節

日本では8月11日は、国民の祝日で「山の日」となっています。国土の大半が山であるこの国で、私たちは、山からたくさんの恩恵を受けて暮らしています。「山の日」は、山に親しむ機会を得て、山の恵みに感謝することを目的に制定された祝日だそうです。また、富士山をはじめ、古くから日本には山岳信仰が根付いています。こうして日本のみならず山は、聖なるところだと人々に信じられてきました。ですから山は、人々にとって祈り、慰めの場所でもあります。しかし山の頂上まで登るのは、簡単な事ではありません。登頂するまでには、たくさんの困難が待ち構えています。

今日のマルコ福音書には、タボルという山の上で、「主の変容の出来事」が起こったことについて記されています。「タボル山で、イエスが祈っておられるうちに、顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」というエピソードがありました。この光景を見たペトロはすっかり驚き、「先生、私たちがここにいるのは素晴らしことです。仮小屋を三つ建てましょう」と言い出しました。

実は、このペトロの発言を考えてみると二つの思いが含まれています。まず、一つ目は、ペトロはイエスの変容の出来事に非常に驚き、ずっと体験したいという気持ちがあり、できれば長くこのまま山で過ごしたいから、仮小屋を建てたいという願望を自発的に表明しました。そして二つ目は、ペトロ自身が山の上に少しでも長く静かに暮らしたいという理由から辛くて苦しい現実から逃げたいという思いです。彼は、日常の悩みや苦しみに満ちている現実の生活に戻りたくなかったからずっと山にい続けたいと感じていたのでしょう。

皆さん、一度きりの人生で、失敗せずに生きていくことは不可能です。人生において、「山あり、谷あり」ということわざがあります。つまり、人生には、誰でも幸福な時があり、不幸なときもあるのです。喜びのときがあり、悲しみのときもあるのです。成功するときもあり、失敗するときもあります。しかし、失敗してもそこから学ぶ事がきっとたくさんあります。確かに、試練はどのようなものでも、それを受ける人には、好ましいものではありません。しかし、試練を通してしか、養えないものがあるのです。

主イエスは、タボル山で自分の変容をお示しになった後、次は、ゴルゴタへ向かって行きました。つまり、キリストご自身は復活の栄光を受けるために、ゴルゴタの受難の道をたどり、十字架の苦しみや死を受けなければならなかったのです。同じように、私たちの人生も、成功や栄光を達成するために、多くの挑戦、犠牲、葛藤が必要です。

皆さん、人生にはタボル山の変容という幸せなこともあり、ゴルゴタの丘のような十字架もあります。ですから、どうか、イエス様の模範に習い、試練や困難に直面した時、嘆き逃れようとするのではなく、心を開いて、素直に受け止め、キリストと共に十字架の道を辿るなら、癒しや救いの恵み、また人生の栄光が輝いてくると信じて、心新たにして四旬節を過ごしてまいりましょう。

 
メッセージ - B年 四旬節

人生において、誰でも苦しいことを望む人はいないと思います。できれば、苦しみを避けて通りたいと誰でもそう思っているのでしょう。確かに今、苦しみの中にある人にとって、苦しみに積極的な意味を見出すことは困難なことです。しかも、もし苦しみが苦しみで終わるなら、人生は、本当に悲劇だと思ってしまうかもしれません。しかしよく考えて見れば、実は、神様は私たちに乗り越えられる試練しか与えられないのです。つまり、神様は背負えない十字架は与えません。さらに、与えられた試練には、すべて意味があるのです。「人」は人生の幸福を第一として願っていますが、「神」は人の成長を第一として願っておられます。そのために、試練が与えられるのです。試練はどのようなものでも、それを受ける人には、好ましいものではありません。しかし、試練を通してしか、養えないものがあるのです。

神様はイスラエルの民に聖地を約束してくださいました。しかし、彼らが約束の地に到着する前に、神はさまざまな試練を通して彼らの信仰を試されました。これらすべての試練は、彼らの人生と信仰を成熟させることを目的としています。主イエスご自身も、復活の冠と天の王位を受ける前に、この世で様々な試練を経験しなければなりませんでした。まず、砂漠でサタンの誘惑に遭ったことです。そして、人間から拒絶されたことです。最後に、ゴルゴタの十字架の苦しみを通っていかなければならなかったということです。

四旬節はある意味でわたしたちの人生の荒れ野での戦う時期。神は、わたしたちをその四旬節に人生の荒れ野として送ってくださるのです。荒れ野として、そこで悪魔と戦うのではなく、自分自身と戦うということです。つまり、今までの人生を振り返って、自分自身の欠点や不足に向き合い、その弱さを認め、悔い改め、乗り越えていく戦いです。それが、現代のわたしたちの荒れ野の戦いと四旬節の過ごし方だと思います。