メッセージ - A年 待降節

洗礼者ヨハネが天の国の到来が近いことを宣べ伝え、人々に悔い改めを呼びかける姿は、「荒れ野で叫ぶ者の声」(マタイ3:3)とたとえられています。実際にユダヤの荒れ野で活動していたヨハネは、らくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締め、イナゴとの蜜を食べ物としていた、という独特の風貌でしたが、更に厳しい言葉を用いて人々を非難し、その罪をとがめます。神の怒りが差し迫っており、木の根元には斧が置かれていて、良い実を結ばないなら、すぐに切り倒されて火に投げ込まれる、という厳しさです。まさに人が生きていくことができない、過酷な自然環境である「荒れ野」のあり様です。

しかし、そんな荒れ野でこそ、「聖霊と火」で洗礼を授ける、洗礼者ヨハネよりも優れた方の到来が告げられました。荒れ野でこそ、救いの訪れ、神の国の訪れが宣べ伝えられました。私たちは、だれしも自分の「荒れ野」で、苦しい状況を生きることがあります。けれども、そんな荒れ野の中にこそイエスが生まれた、人々の苦しみや痛みによりそい、いやしを与えるために生まれた、そういうことを思い起こさせてくれます。

人々が幸せを感じ、楽しみを分かち合うクリスマスの時期だからこそ、荒れ野のメッセージを大切にしたいものです。

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メッセージ - A年 待降節

今日の福音朗読(マタイ24:37-44)、そして第二朗読のパウロの手紙(ローマ13:11-14a)において、中心となっているメッセージは、「目を覚ましていなさい」「眠りから覚めなさい」ということです。それは肉体的な眠りや目覚めのことではなくて、精神的あるいは霊的な目覚めのことであり、私たちが神の国の到来に敏感であるように、との勧めになっています。

神の国はもちろん見えるものではなく、またどこでどのように実現するかわからない、人の子は思いがけないときに来る(マタイ24:44)と言われています。ですから、見えないものへの感覚を研ぎ澄ますことが重要です。第一朗読のイザヤ(2:1-5)は、国が戦争の危機に直面するという厳しい状況にあって、そこには見えるはずがない、武器が必要なくなる平和のビジョンへの希望を持ちました。私たちは見えていない希望に強められ、見えてないが恵みを受けていると感じて感謝し、見えない愛を形にして自分の使命を果たします。

福音朗読で言及されているノアの時代の人々が「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」という当たり前の日常的なことだけにとらわれて、洪水が襲ってくるのに気づかなかったように、私たちも目の前の見えていることだけにとらわれると、大切なものを見逃してしまうかもしれません。

馬小屋の飼い葉桶に寝かされている幼子イエスに目を向けるとき、キリスト者でなければ、そこにあどけない、無垢だが無力な赤ん坊を見るだけです。しかし、イエス・キリストを知っている者は、その赤ん坊に、貧しい人の友となり、病の人に手を差し伸べていやし、十字架の死に至るまでその行き方を貫いた姿を見出します。

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メッセージ - C年 年間

カトリック教会の典礼暦年間の最後の主日は、王であるキリストを祝います。今日の福音朗読の箇所は、ルカ福音書におけるイエスが十字架につけられた場面です(23:35-43)。そこでは、十字架を囲む兵士たちがイエスのことを「ユダヤ人の王」と呼んでいますけれども、それはもちろん皮肉です。十字架の上で何もできない、自分を救うこともできない、と言って侮辱しています。また、一緒に十字架に掛けられていた犯罪人の一人も、同じように「お前がメシアなら、自分自身と我々を救ってみろ」とののしりました。彼らにとっての「王」とは、第一朗読(サムエル下5:1-3)に描かれているダビデのように、この世界で強い武力を持ち、戦争の時に人々の前に立って、敵と戦ってくれる人物のことでした。それに対して、もう一人の犯罪人は、「あなたの御国においでになるときには」、つまり「あなたが王としてご自分の国に入るときには、わたしのことを思い出して下さい」と言いました。


両者ともイエスのことを「王」だと言いながら、王がどういう者かということについては、別々の考えを抱いていました。兵士たちは、力強く戦う王・敵を力で滅ぼす王のイメージを持ち、イエスのことを皮肉で「王」と呼びながら、十字架から降りてくる力がない、弱々しくて自分自身も他の人も救えない、と侮辱しました。逆に一人の犯罪人は、イエスは何も悪いことをしていないのに、その必要もないのに、すべての人の救いのために、自分から十字架に上がっていった、だからこそ王として自分の国に入られる、そう考えました。


私たちにとっての王は、戦いの中で敵を攻撃して滅ぼす王でしょうか。それとも、人々を愛し、そのためには身をささげるほどの苦しみを受け入れて、人々を救う王でしょうか。私たちにとって、十字架の上のイエスは、弱い、力のない、惨めな人でしょうか。それとも私たちのために命をかけるほど、強い愛を持った方でしょうか。

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テーマ - テーマ

前回に引き続き、今年の聖書週間のテーマ「すべてのいのちを慈しむ」に沿って、聖書の言葉とフランシスコ教皇の言葉を紹介します。黙想の種としていただければ幸いです。

 

7.「あなたがたに新しいおきてを与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)
なぜイエスは「新しいおきて」と呼ぶのでしょうか。愛の古いおきてが新しくなったのは、「わたしがあなたがたを愛したように」ということばが付け加えられたからです・・・イエスはその愛のうちに、わたしたちのためにご自身のいのちを与えてくださいました。それは条件も際限もない、普遍的な神の愛です。その愛は十字架上で頂点に達します。御子は、どこまでもへりくだり、御父に身をささげたときに、完全な愛を世界に示し、与えました。キリストの受難と苦しみを思い返しながら、弟子たちはイエスのこのことばの意味を理解したのです。
2019年5月19日「アレルヤの祈り」でのことば より


8.「わたしたちは、互いにからだの一部なのです」(エフェソ4・25)
キリスト者としてわたしたちは皆、自分がキリストを頭とするからだの一部であることを自覚しています。それによってわたしたちは、競争相手になりうる存在として他者をとらえるのではなく、敵であっても人として考えられるようになります。自分自身のことを明らかにするのに、敵はもはや必要ありません。すべてを包み込むまなざしをキリストから学んだわたしたちは、かかわりをもち、親しくなるために欠かせないもの、その条件として、他者性を新たな視点でとらえることができるからです・・・交わりであり、ご自身を伝えるかたである神の像と似姿として造られているからこそ、わたしたちは交わりながら生きたい、共同体に属したいという願いをつねに心に抱きます・・・まさに信仰それ自体がかかわり合いであり、出会いです。わたしたちは神の愛に後押しされて、他者というたまものとかかわり、その人を受け入れ、理解し、こたえることができるのです。
第53回「世界広報の日」教皇メッセージ(2019年5月26日)より


9.「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか」(マタイ5:46)
わたしたちは愛のわざを通して、自分の信仰を示します(ヤコブ2・18参照)。最高の愛のわざは、報いることも、おそらく感謝することさえもできない人に向けられるものです・・・現代社会はいつも、疎外された人に対して優越感を抱き、残酷です・・・代償を払わされるのはいつでも、小さくされた人、貧しい人、もっとも弱い立場にある人です・・・排他的な発展は、豊かな者をさらに豊かにし、貧しい者をさらに貧しくします。真の発展は、世界のすべての人を対象とするものであり、その全面的な成長を促し、後の世代にも配慮します。

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人のしもべになりなさい」(マルコ10:43-44)
これは移住者だけのことではなく、後回しにされる人を最優先するということです。イエス・キリストは、世俗の論理に屈することのないよう求めています。それは、自分と仲間の利益のために他者をないがしろにすることを正当化する、まずは自分で他者は二の次という論理です。そうではなく、キリスト者の真のモットーは「後回しにされる人を最優先に」です・・・福音の論理では、後にいる者が先になるのですから、わたしたちは仕える者にならなければなりません・・・親愛なる兄弟姉妹の皆さん、現代の移住現象が抱える課題への対応は、受け入れる、守る、励ます、共生するという四つの動詞にまとめることができます。しかし、これらの動詞は移住者と難民だけに当てはまるのではありません。それらは、受け入れられ、守られ、励まされ、共生することを必要としている、周縁で生活するすべての人に対する教会の使命を表しています。
第105回「世界難民移住移動者の日」教皇メッセージ(2019年9月29日)より


10.「信じた人々の群れは心も思いも一つにし・・・すべてを共有していた」(使徒言行録4:32)
教会では、このような活動がつねにキリスト者によって行われています。過剰にもっているものや不必要なものを手放し、困窮している人に差し出すのです。金銭だけでなく、時間も差し出します・・・困窮している人を助けるために、自分の時間を分かち合うのです。ですからボランティア活動、慈善活動、病者への訪問を行いましょう。自分の利益だけを追求せずに、つねに他者と分かち合わなければなりません・・・愛は一つの行動様式です。ことばでも、うわべだけのしぐさでもありません。愛とは行いであり、相互の助け合いであり、具体的に実践されるものです・・・分かち合いにおいて誠実さに欠けること、つまり愛の誠実さに欠けることは、偽善を助長し、真理から自分自身を遠ざけ、利己主義に陥り、交わりの炎を消し、心の冷たい死を選ぶことを意味します。
2019年8月21日一般謁見演説 より


11.「貧しい人の希望は決して失われない」(詩編9:19)
詩編のこの一節は、極めて時宜にかなっています。信仰はもっとも貧しい人の心にとりわけ刻まれ、不正義や生活上の苦しみ、不安定さによって失われた希望を取り戻してくれるという根本的な真理を、この一節は示しているのです・・・確かに、食料が提供されるから貧しい人はわたしたちのもとにやって来るのですが、彼らが本当に求めているのは、差し出される温かい食事やサンドイッチだけではありません。再び立ち上がらせてくれるわたしたちの手、愛の温かみをあらためて感じさせてくれるわたしたちの心、孤独をいやしてくれるわたしたちの存在を、貧しい人は求めているのです。彼らが求めているのは愛、ただそれだけなのです。・・・ほんのわずかなことで、希望が取り戻せることもあります。しばらく立ち止まり、微笑み、耳を傾けるだけでよいのです。時には、統計を脇に置きましょう。貧しい人は、わたしたちの活動や企画を誇示するためのデータではありません。貧しい人とは、会いに行く人です。
第三回「貧しい人のための世界祈願日」教皇メッセージ(2019年11月17日)より


12.「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、からだの不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」(ルカ14:13-14)
わたしがあなたのためにこうするのは、あなたが同じことをわたしにしてくれると期待しているからです。それではいけません。キリスト者としてふさわしくありません。キリスト者は謙虚で、寛大であるべきです。人間同士が報い合うことは、往々にして人間関係を傷つけます。寛大で無償であるべき人間関係に、個人的な利害を加えることにより、相手を「利益を得るための存在」にしてしまうのです。そうではなく、イエスは無欲で寛大になり、より大きな喜びへの道を切り開くよう招いています。その喜びとは、わたしたち皆が、天の宴席で待っていてくださる神の愛にあずかる喜びなのです。
2019年9月1日「お告げの祈り」でのことば より


13.「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」(ローマ8:19)
神との交わりが絶たれれば、園が荒れ野と化したように(創世記3:17-18参照)、人間と、そこで生きるよう人々が招かれている環境との間の調和的な関係も傷つけられます。罪は、人間に自分のことを被造物の神、絶対的な君主であるという考えを抱かせ、たとえ他者や被造物を傷つけても、創造主のみ旨のためではなく自分の利益のために被造物を利用するよう人間を仕向けます・・・自分だけを見つめる利己主義を捨て、イエスの過越に目を向けましょう。困窮している兄弟姉妹に寄り添い、霊的、物的な財を彼らと分かち合いましょう。罪と死に対するキリストの勝利をこのように実生活で具体的に受けとめ、その変革の力を被造物にも届けましょう。
2019年四旬節教皇メッセージ より

(終わり)

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メッセージ - C年 年間

クリスマスの準備をする待降節が近づき、教会の暦である典礼暦が終わりに近づくと、ミサにおいても終末に関する聖書箇所が読まれるようになります。一年の終わりが近づくにあたって、私たち自身の終わり、世の終わりについて考えさせるものです。

世の終わりというものは、私たちが生きている内には来なさそうですけれども、今日の福音朗読(ルカ21:5-19)に描かれている戦争、暴動、地震、飢饉、疫病などという「恐ろしい現象」(21:11)は、今もこの世界で絶え間なく起こっていますし、近しい人による裏切りや人から憎まれる(21:16-17)ということも体験することがあります。

私たちにとって重要なことは、世の終わりがいつなのか、どのようなものなのか、ということではありません。そうではなく、世の終わりだと思われるようなことがあっても、抱えきれず倒れてしまうほどの苦しみやつらさがあるときでも、それがすべてではない、それで終わりではない。必ず神は私たちに心を配り、守り、導き、愛して下さる。だから信頼して私についてきなさい、そうイエスは私たちに語りかけています。「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(21:18)というイエスの言葉は、そのような私たちを力づける言葉です。

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