メッセージ - B年 復活節

今日の福音書は、エマオでイエスと出会った二人の弟子がエルサレム戻った後のことについて伝えています。彼らは自分たちがエマオで体験したことを話している時に、イエスが彼らの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と彼らを祝福しました。しかし、彼らはイエスのことを亡霊だと思って、恐れおののいていました。こうして、イエスはたびたび弟子たちの前に現れましたが、弟子たちは復活したイエスの姿に気付きませんでした。なぜ気づかなかったのでしょう。

それは、弟子たちは自分たちが持っていた生前のイエスのイメージにしがみついているからではないでしょう。イエスの死によって希望を失った弟子たちにとって、人々に教え、病人を癒し、困った人を助けるのが彼らが持っているイエスのイメージです。彼らは目に見える形で神的な力を発揮するイエスに希望を置いているからです。弟子たちは過去のイエスにしがみついているあまり、今自分たちの真ん中に立っているイエスに気づかなくなってしまいます。

しかし、復活したイエスは弟子たちの固定観念に超えた姿で彼らの真ん中に立っています。そして、イエスは戸惑っているその弟子たちに「復活の証人」となる使命を与えました。「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」という使命です。以前、エルサレムから離れてエマオに向かった二人の弟子がイエスとの出会いによってすぐさまエマオからエルサレムに戻りました。復活の証人となる使命は希望を取り戻す弟子たちに与えられました。

私たちも生活の中で希望を失いそうな時をしばしば直面しているのではないでしょうか。しかしその時にこそ、主は私たちの固定観念、私たちの想像を超えて、私たちが気づかない姿で(仕方で)、今ここで、私たちの真ん中にいて下さるのです。このように、復活の信仰を持たない人にとって、イエスは単なる過去に生きた人に過ぎません。しかし、イエスの復活を信じる人にとって、イエスは今、ここで新しい希望を与える「生ける者」になるのです。

 
メッセージ - B年 復活節

今日の福音の箇所(ヨハネ20:19-31)では、復活したイエスが二回にわたって弟子たちに現れます。その弟子たちは、家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。自分たちの先生が十字架につけられて処刑された悲しみと、自分たちも捕らえられるのではないかという恐れのためだったのではないでしょうか。

そんな中、イエスが現れて「あなたがたに平和があるように」と言われます。一度目の出現ではこの言葉を二回繰り返され、二度目にトマスがいる時にやってきた時にも同じ言葉がかけられました。

この「あなた方に平和があるように」という言葉は、単なる挨拶ではありません。悲しみと恐れに沈んでいた弟子たちへ、安心して家の中でずっと過ごせるように、ということでもありませんでした。イエスが弟子たちにもたらされた「平和」とは、何もなく、黙って暮らせるという、ただただ平穏な、安全な、変化がない状態のことではありませんでした。「あなた方に平和があるように」という言葉に続いて語られたのは、「父が私を遣わされたように、私もあなたがたを遣わす」、「聖霊を受けて、誰の罪でもゆるしなさい」という、派遣の言葉でした。平和は、自分の中に閉じこもっていることではなくて、世に遣わされて、そこで神のゆるしを実現することでした。

またトマスに対しても、「平和があるように」に続いて、「信じる者になりなさい」「見ないのに信じる人は幸いである」と言われました。これはトマス自身だけではなく、イエスを見ていない人にも、その福音を伝えなさい、見せられなくてもその言葉を聞かせなさい、信じさせなさい、それによって人々に幸いをもたらしなさい、そういうメッセージだったのではないかと思います。

ミサの中では聖体拝領の前に「主の平和」の挨拶が交わされます。私たちも、弟子たちと同じように派遣されています。

 
メッセージ - B年 復活節

きょうの福音で描かれている主イエス・キリストのご復活の出来事において、注目したいことは「ペトロの存在」です。ご存知の通り、ペトロは最後の晩餐の直後に主イエスを否定して、打ち消しました。それは本当に残念なことだと思います。今まで家族から離れて、自分と兄弟アンデレとともに、ずっとイエス様と他の10人の弟子とともに生活していました。また、ともに宣教活動をしていましたが、最後の最後に、信頼関係を破ってしまいました。ペトロは人々の前で、「イエス?あの人は知らない」と三度も否定しました。本当に残念というよりも、悲しかったでしょう。

しかし、この弱い人間であるペトロ自身は、その後に「自分の罪を認め、失敗を自覚して、そして、気持ちを切り替え、回心しよう」と決心しました。この「立ち上がった姿」がペトロの新たな人生の出発だと思います。このペトロの出来事という「気持ちを切り替え、立ち上がったこと」とは、現在の私たちの復活の意味だと思います。つまり、私たちの「復活」とは、遠い先に訪れる「永遠の命の復活」を準備する意味と捕らえるのではなく、「現在の人生の人格的なチャレンジ」ということを意味します。自分の、人生の暗闇の束縛から解放されるように自信を持ち立ち上がって、取り戻し、やり直すということなのです。人生の暗闇の部分とは自分にとっての欠点、みにくさ、罪深さに対する苦しみ、などです。これらの心の重いふたを解放し、解き放つという内面的な力が、これが「復活だ」と思います。もう一度立ち上がって、一歩前に進んでいくということです。

一つの名言があります。「生きる上で最も偉大な栄光は、決して転ばないことにあるのではなく、転ぶたびに、起き上がって、歩き続けることにある」と。どうか、ペトロの模範に習い、自分にとっての「欠点、みにくさ、罪深さに対する苦しみ、などなど」、これらの「心の重いふた」を、脱ぎ捨て、復活の信仰の内に、「新しい自分」という「内面的なチャレンジ」を身につけましょう。アーメン。アレルヤ!“主のご復活、おめでとうございます”

 
メッセージ - B年 四旬節

今日は「枝の主日」である。わたしたちにとって棕櫚の葉の意味は何か。まず、棕梠の葉は春の象徴である。春は冬に置き換わるという哲学に基づいている。冬といえば、植物が一時的に枯れたり、冷たさや苦みなど、冬にしか味わえないさまざまな困難が伴う。春の到来とともに、わたしたちが感じる困難は一つ一つ消え、美しさと平和に取って代わられる。冬に代わって春になると、イエス・キリストが助けに来て、平和と喜びの新しい雰囲気を与えてくれる。

次に、棕梠の葉は勝利の象徴である。これはギリシャ・ローマの伝統に基づいている。勝利の象徴の意味は、手を振ることに似た棕梠の葉の形に基づいており、手のひらを振る様子は勝利の行列に似ている。象徴的に、棕梠の葉は死に対するイエス・キリストの勝利を示すことを意味する。

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「枝の主日」の最も深い意味は、人生の苦しみにどのように対峙していくかということである。苦しみも侮辱も受けずに大きくなることは、それが多くの人の夢である。残念ながら、そういうような生活はない。苦難の道を通らずに大きくなる夢は、それは何もしようとしない怠惰な人の空想に過ぎない。人生は松明のようなものである。軽蔑、侮辱、苦しみは、松明を灯し続ける油にたとえられる。侮辱や苦しみを避けることは、人生を役に立たない空き缶のようにすることを意味する。

「一年に三日だけ良いことがあれば、あなたは地球上で最も幸せな人である」という話を聞いたことがある。一年は三百六十五日がある。三日間だけ良いことがあるとすれば、残りの三百六十二日は当然苦しい日々である。この話しを考えれば、人生における侮辱や苦しみは当たり前である。だから、侮辱や苦しみに翻弄されたら、別にしけた顔をしなくても良い。

人生のすべての問題は、その形がどうであれ、解決策がなければならない。出口のないバンカーはない。明けない夜はない。どんな苦しみも新しい苦しみを生み出すことよりむしろ、人生の知恵を生み出す。人生の諸問題は決して新しい問題を孵化させないが、生命力を孵化させる。人生の問題には、人生を破壊する力はない。人生の問題は、人生に力を与えるためだけに存在する。人生の問題は、人生に強靱な筋肉を提供するためだけに存在する。

木には嵐が必要で、寄生虫の住みかとしてのみ機能する乾いた枝が取り除かれる。よりよく生きるために、嵐が必要である。人々がさまざまな生活上の問題に直面すると、脳の最良の部分が機能する。人生に訪れた苦しみを決して軽視してはならない。その苦しみはわたしたちが人生に集中するためにそこにある。

苦しみは神聖な真実である。苦しみがそれほど神聖に尊重されるなら、どれだけ多くの幸福が得られ、どれだけ進歩し、どれだけ成長できるだろうか。幸福だけではなく苦しみも人生を強化する。理想を潤すのは平和だけではなく、災害も理想に潤いを与える。成功は、失敗に見舞われたときの深い感謝に根ざしている。

苦難の道を経ない偉大さは魅力的ではない。それなのに、なぜわたしたちはまだ苦しみの道を拒否するのか。苦労せずに、達成されたものは役に立たない。狡猾に何かを手に入れるであれば、永遠にそのものに束縛されるに過ぎない。わたしたちが人生で得たものは、わたしたちの人生をより有意義なものにするべきであり、負担を重くするものではない。

人間は皆「問題」や「苦しみ」に直面する時それらのことに反応し、失くそうとする。退屈を失くすために食べる。飽和を失くすために娯楽を捜す。病気を失くすために薬を飲む。これは、多くの心理学者が認めているように人生に抵抗する具体的な形である。あなたが抵抗するものは持続する ―  what you resist persist。だから、わたしたちはよりよく生きることができない。わたしたちは暗いトンネルからなかなか出ることができない。わたしたちは何事にも抵抗し続けるからである。抵抗に満ちたほとんどの人の生活とは異なり、瞑想の道を歩む人は抵抗しないように教えられている。裁定せずに知ること。区画化せずに見ること。判断せずに聞く。痛い、健康、嬉しさ、悲しさ、退屈等すべてありのままに受け入れる。賢者たちが言うように「すべての波を取り除くと、海洋を失う。」

英語の「understanding」は、「分かる」という意味である。逆にするとstanding underになる。「下に立つ」という意味である。机の足のように、重くても机を支えるためにしっかり立つ。瞑想家も同じである。彼らは人生の問題に直面した時すぐに失くそうとしない。苦しみは天罰だと彼らは一切考えない。彼らは「人生の問題」や「苦しみ」などに出会った時、謙虚に受け入れ、その問題が起こった理由を丁寧に捜し続ける。そうすることによって最終的に「自己中心」があらゆる人生の問題の源であることをはっきり悟るだろう。自己中心になればなるほど、より苦しくなる。自己中心が小さければ、問題は軽くなる。抵抗するのが好きなのはエゴイズムである。

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失敗したときの 一つの助けは、成功したときの多くの拍手より価値がある。イエスがエルサレムの町に入られると、誰もが喜んでイエスを迎えた。しかし、数日後、誰もがイエスから離れていった。わたしたちがすべてを持っているとき、誰もがわたしたちがまだ一つの家族であることを認める。しかし、すべてを失ってしまうと、家族でさえあなたを家族の一員として認めなくなる。人生には永遠の友も敵もいなくてあるのは永遠の利益だけである。

 
メッセージ - B年 四旬節

イエスについて語る四つの福音書が聖書全体の中心であるならば、福音書全体は今日のヨハネ福音書に出てくる「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉に要約出来ます。教会の改革者ルーターはこの箇所を「縮小された福音書」と称しました。福音書に語られるイエスの言葉と業、そして聖書全体で語られる救いの歴史はこの一言でまとめることが出来ます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。これこそが全ての人にとっての「福音、良い知らせ」です。

その愛は歴史の中で実現しています。第一朗読にあるように、イスラエルが神に背き、神の愛を裏切っても、神は彼らを見捨てることはありません。神に背いた結果、彼らは捕囚としてバビロンに連れて行かれました。しかし、神はペルシアの王キュロスの手を通して、彼らをエルサレムに連れ戻しました。そして、イスラエルの民だけではなく、パウロが第二朗読で言うように、世を愛された神はその独り子イエスによって罪のために死んでいた私たちを救ってくださいました。イエスを通して私たちは神の愛と慈しみを体験することが出来ます。

しかし、戦争や災害や病気など極限の苦しみの時に、神の愛を感じ取ることができないのが私たちの日常の現実です。先週、私の従姉妹は乳ガンで亡くなりました。病院に連れて行かれた時はもう手遅れで、すぐに家に返されました。彼女は数年前に夫を亡くしました。女一人重い障害の息子を育ててきた彼女にとって、なぜ自分だけがこんなに苦しまなければならないのか、と神様に訴えました。電話で話した時に「神様は不公平じゃないか。私の何がそんなに悪いのか。私って神様の前にそんなに醜いなのか」と泣きながら話していました。私は返す言葉がありませんでした。痛みを和らげるための装置も受けずに、大変苦しんでいました。最後には意識がなくなり、そのまま息を引き取りました。

こんな時に、神の愛や慈しみは単なる慰めの言葉にしか聞こえないかもしれません。それでも「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という事実は変わりません。その独り子ご自身は十字架の上で苦しみの中で息を引き取りました。日々苦しむ私たちと共に。日々苦しむ私たちのために。