メッセージ - B年 降誕節

今日の主の降誕夜半のミサでは、イエスの誕生の次第が描かれています。ヨセフとマリアは宿屋に泊まることができずに、生まれたイエスを飼い葉桶に寝かせた様子が描かれており、とても王の誕生とは思えないような様子が描かれています。そしてその誕生が最初に告げ知らされたのは、羊飼いたちでした。当時の羊飼いは社会的に低い地位の人たちであり、あまり尊敬される職業ではありませんでした。天使たちは「民全体に与えられる喜びを告げる」と羊飼いたちに伝えていますが、イエスは小さな人々、特に希望を必要とする人々に対しての王であったことが分かります。

私たちのクリスマスの喜びは、悩む人々、苦しむ人々に近づくことにあるように思えます。それは苦しむ人々のために現れ、救いの喜びを告げ知らせたイエスのように、私たちも喜びを分かち合い、人々に近づこうとすることこそが私たちのクリスマスの喜びであり、イエスがこの世に生まれた意味だと言えると思います。今日の福音書の冒頭では、人口調査の記事が最初に書かれていますが、主の降誕は決して過去のおとぎ話ではなく、神がかつて行われたわざであり、そのわざは今、私たちの間でも行われています。だからこそ今日主の降誕を祝う私たちは、この喜びを人々に近づき、平和を築くように召されていると言えます。

 
メッセージ - B年 待降節

イスラエルの歴史の中で、神はご自身が「共にいる神」だということを示しています。第一朗読に、繁栄したダビデ王が「神の家」を建てる計画をしていた時に、神は預言者ナタンを通してダビデ王にその計画を考え直すように語られました。ダビデは神の家を建てようとするが、それよりも大事なことを忘れているからです。ダビデ王は神の家を建てることで、神がイスラエルの王や民の間に留まるようにしたかったのです。しかし、神が彼とずっと共にいることを忘れています。偉大な王になったダビデが忘れているのは、自分を「牧場の羊の群れの後ろから選んだ」のは神ご自身です。サウルに変わってイスラエルの王にしたのも、神ご自身です。そして、彼の敵を抑え、偉大な王たちに並ぶ繁栄を与えたのも、神ご自身です。神が彼と「共にいて」くださるからです。神はダビデ王がまずその確信をしっかりと心に銘記して欲しかったです。

結局、神の家を建てる計画はダビデの息子ソロモンによって実現されました。しかし、ダビデ自身も、息子ソロモンも、そしてイスラエルの民の心は、神からどんどん離れていくのです。その神の家、神殿が破壊された後、建て直されました。しかし、さまざまな辛い経験に直面する中、イスラエルの民の心の中には、神が「共にいる神」であるという確信が次第に薄れていきます。

長い歴史を経て、その確信が消えそうになった時に、ガリラヤのナザレで天使ガブリエルは一人のイスラエルの娘、マリア様に告げました。「恵まれた方、主はあなたと共におられます」と。ダビデ王を含め、いく世代ものイスラエルの民が忘れそうになった「共にいる神」への希望を捨てなかったイスラエルの娘がいます。その娘、マリア様ご自身は決して楽な状況の中にいるわけではありませんでした。結婚をしていないのに子供を産むという使命を受けるべきか、難しい決断に迫られました。理解し難い天使の言葉をマリア様は素直に受け入れることが出来ませんでした。しかし、戸惑いながらも、マリア様は「私は主のはしためです。お言葉どおりになりますように」と答えました。その言葉がマリア様の口から出ることが出来たのは、「主があなたと共におられます」という天使の言葉が単なる形だけの挨拶ではなく、マリア様自身の確信、マリア様が日々培っている信仰だからではないでしょうか。

マリア様が天使のお告げにすべて納得した上でイエスを産むことを受け入れたのではありません。恵みを受けるためには、全てのことを納得する必要はないです。マリア様の中に大きな疑問が残ります。その疑問は、馬小屋で産まれた我が子を飼い葉桶に寝かせた時に更に深まっていきます。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。神は何を望んでいるのでしょうか。しかし、十字架の傍らでそれらの疑問が解ける時まで、マリア様はその全てを静かに心の中に思い巡らすことが出来ました。「神があなたと共におられます」という天使の言葉をマリア様は確信しているからです。

もうすぐ来る「インマヌエル、共にいる神」を心から迎えることが出来ますように。

 
メッセージ - B年 待降節

ヨハネ福音書は、「イエスが誰なのか」に関心があります。ですから、たとえば福音書の序文とされることろでは、肉となって私たちの間に宿られた「言(ことば)」だと言われていますが、他にも「命のパン」(6:35)、「良い羊飼い」(10:11)、「復活であり、命」(11:25)、「道であり、心理であり、命」(14:6)などと言われています。

今週の福音朗読箇所(ヨハネ1:6-8、19-28)では、イエスより先に洗礼者ヨハネが登場し、彼のアイデンティティが問われます。エルサレムのユダヤ人たちから「誰なのか」と、メシアなのか、エリヤなのか、あの預言者なのか、と尋ねられますが、ヨハネはそのいずれでもなく、自分は「『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ声である」と宣言します。そして自分のことだけではなく、イエスについて「その人は自分の後から来られる方で、自分にはその履き物のひもを解く資格もない」と語ります。

洗礼者ヨハネの生涯は決して楽なものではなかったと思いますが、それでも彼は、ヘロデに殺されるまで、最後まで自分が誰であるか、何のために生きているのか、という自身の使命をまっとうしました。彼がそうすることができたのは、自分自身とイエスについてよく知っていて、どういう関わりをしていくか、自分が「後から来られる方」のために何をするべきかという、自分自身の使命をはっきりと見出すことができたからでしょう。

待降節は、イエス・キリストの到来の意味を問うときでもありますが、同時に、それが私たちにとってどういう意味なのか、そしてそれに対して私たち自身がどう応えて生きるのか、自分の生きる意味を問うときでもあります。洗礼者ヨハネは、闇を照らす光として来られた方の証しをする、ということを自分の使命としました。貧しさの中に、謙遜のうちに生まれ、病気の人、罪人、弱い人、苦しんでいた人に手を差し伸べ、十字架の上で命を献げるまで愛を貫いた、イエスの生き方と私たち自身の生き方をどうつなげるのか、が問われています。

 
メッセージ - B年 待降節

きょうの福音は洗礼者ヨハネの信仰や宣教について記されています。この福音に基づいて、ヨハネの優れたことを分かち合いたいと思います。

まず、自分よりも相手のオーラを広げるために働く

洗礼者ヨハネとイエスは、年齢的に半年ほどしか離れていません。たった六ヶ月だけの違いです。そう言った意味で、年齢的にほとんど一緒だと思います。しかし、ただ六ヶ月間の違いだけですが、宣教の立場から見ると、洗礼者ヨハネの方が先輩であり、先駆者であるということです。「たて社会」で言うならば、後輩であるイエスが、先輩である洗礼者ヨハネの元に働き、従わなければならないだろうという事です。

しかし、実は、そうではありませんでした。しかも、洗礼者ヨハネは、そう言うような気持ちは、一切持っていませんでした。逆に、自分よりも、自分の後輩であるイエスの事を自分の宣教の鏡としてくださいました。さらに、自分の元に付いている弟子たちを、ずっと、自分のところに引っ張って来るということではなく、逆に、自分の弟子たちを手放して、イエスのところに送られたのです。ここが、洗礼者聖ヨハネの最も美しいところだと思います。

当時、洗礼者ヨハネの宣教はとても幅広いで、大活躍でした。人々は洗礼者ヨハネのことについて、もしかして、メシアではないか、または、大預言者のエリヤがよみがえられたのではないかと思ったほど、洗礼者ヨハネは熱烈に受け入れられ、その存在を重く見られました。しかし、ヨハネは、決して自分が「その人だ」とは一切言われませんでした。むしろ、きょうの福音で描かれたように、ヨハネは「その方は私の後から来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値打ちもありません。」と謙遜に答えています。

私たちの多くが、自分のことばかり考え、自分の都合、自分の面子、面目、自分の地位や名誉などを気にしているのに対しているが、洗礼者ヨハネは、相手が広く知られるならば、自分が忘れ去られることになっても、それを喜ぶ、そうした友情を洗礼者ヨハネはイエスに対して表わしています。本当に、自分よりも相手のオーラをもっと広げるために必死で働く洗礼者ヨハネでした。

どうか、私たち自身も、洗礼者聖ヨハネの模範にならい、まず、他の存在を認め、ライバルとしてではなく、友として、また協力者やパートナーとして、受け入れることが大事です。そして、もう一つの大事なポイントは、洗礼者聖ヨハネが宣教の後継ぎであるイエスのために一所懸命働いたように、私たちも次の世代のために、良い足跡が残せるように。アーメン。

 
メッセージ - B年 待降節

今日から待降節に入り、教会の暦の上では新しい年に入りました。そんな今日の福音箇所は、この待降節という時期に私たちが思い起こすべきこと、再確認すべきこと、そうしたことを伝えている箇所であります。待降節の第一主日、というのは毎年同じテーマの福音が読まれます。それは今日の福音でも大事な言葉である「目を覚ましていなさい」というメッセージであります。これは毎年年間の終わりの最後の一週間に読まれる、世の終わりであるとか、解放の時が来るとか、そうしたいわゆる「終末」というものをテーマにした朗読箇所の言葉を、新しい年に引き継がせる形で、今日のこの待降節第一主日に繋げているわけです。

今日の福音の中で、私たちが心に留めるべきは、やはり「目を覚ましていなさい」というイエスの教えであります。目を覚まして何をするべきか、というと、いつ来るかわからない主人の帰りを、自分たちに割り当てられた仕事をしっかりと果すことですが、このことイエスは弟子たちに教えています。第二朗読のパウロの手紙にもあるように、全てのキリスト者は「主イエス・キリストの現れを待ち望んでいる」わけですから、その時がいつ来てもいいように、イエスに教えられたことをしっかりと守って備えていること、この大切さを今日の福音は伝えているわけです。このことは、「いつ来るかわからない」日に備える注意喚起であると共に、それはいつでも来る可能性がある、という希望を示しているものでもあります。

ただ、こうしたメッセージを私たちが待降節の始めに読むことには、もう一つ確認すべきだという意味があると思います。私たちが待つ「イエスが来られる日」というものは、これから準備していくクリスマスによって、一つの形として表現します。待降節は、その日に向けて心を整えていく時間でありますが、同時に私たちはイエスが来られる、ということを、一日だけのイベントのように捉えてはいけないのだ、ということを理解しなくてはならないと思います。毎週日曜日が主日、つまり主の日とされているように、主イエスは常に、今この瞬間にも共にいるんだ、ということ、このことにもっと私たちは日常から目を向けるべきであると、待降節そしてクリスマスという時間に思い起こす、そうした意味も今日の福音の「目を覚ましていなさい」というメッセージに込められているのではないかと思います。

イエスの誕生の話では「インマヌエル」、主は我らと共におられる、という言葉がありますが、その言葉通りの日々を私たちが生きることが出来るように、そしてまたいつでも「目を覚まして」イエスの教えに従った生活、行動を心掛けて行くことが出来るように、神の助けを願いながら、今日から始まる待降節をよりよく過ごすことが出来るよう祈りたいと思います。