メッセージ - C年 待降節

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」ルカ21,34

人間は、愛である神に象って、神との愛の交わりに生きるために創造されていますので、いくら努力しても、たとえ全世界を手に入れたとしても、この世のもので自分の心の飢え渇きを満たすことはできません。この世のものが満たすことのできない望みは、人間の偉大さを表していると同時に、人間にとって大きな苦しみの原因にもなっているのです。

この苦しみの原因を知らずに、心の飢え渇きを満たすことのできる方を知らない人たちは、この苦しみを少しでも和らげるために、自分の力によって満たすことのできる望みや欲望を、全力を尽くして満たそうとしていることがよくあるようです。確かに、そのような小さな望みや欲望を満たした瞬間ですらも、人間は喜びや満足感を味わいますので、暫くの間安らぎを楽しむことができます。けれども、最初はより簡単に満たすことのできた望みや欲望も段々大きくなるし、それにますます強く左右されてしまうようになります。また、イエスが言われた通りに、この人の心は段々と鈍くなります。

心の鈍くなった人は、心の飢え渇きを満たすことのできる方と出会う時、この方が自分にとって危険な存在であると思ったりするため、この方を喜んで受け入れる代わりに、怖くなって、この方を攻撃するか、この方から逃げてしまいます。こうして、せっかくのチャンスを無駄にしてしまうわけです

イエスこそが、私たちの心の飢え渇きを満たすことのできる方であると信じる私たちは、心が鈍くならないように罪を避けて、いつも目覚め、つまりイエスから与えられた使命を果たしながら、大きな希望の内にイエスを待ち望んで、いつでもイエスを喜んで迎え入れることができますように祈りましょう。

 
テーマ - 翻訳

変容の福音 ヨハネ18:33b-37

イエスの王位はこの世に属していません。この世界の支配者によってふるわれる力とはまったく異なるあり方のものです。その王権は、権力の構造や人間的な力のあり方を根本的に変えようとご自身をまったくささげることに本質があるからです。この「世」的な生き方を選ぶことなく、にもかかわらずこの「世」を変えるために遣わされ、この「世」で生きることは、絶えざる挑戦です。「この世の力」は私たちの前に立ちふさがっており、私たちは誠実で深い信念を持つよう求められています。それは欲望や野心、くだらない利益の罠に陥らないためです。十字架の福音は、真理の力に従って自分の生を生きる人を変容させる力です。私たちは、イエスと同じように、神のみ旨にすべてをゆだねているでしょうか。

(神言会文書 Encountering the Transforming Word 2018 Oct/Nov より翻訳)

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メッセージ - B年 年間

今回の「王であるキリスト」の祝日にヨハネ福音のイエスとピラトのやりとりに注目したいと思います。

裁判を受けた時に、ピラトはイエスに「あなたはユダヤ人の王なのか」と問いただしました。その質問に対して、イエスは「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者が私について、あなたにそう言ったのですか」とピラトに返事しました。大変興味深い答えです。質問に対して、堂々と質問で返すイエス。返事に困ったピラトは「私はユダヤ人なのか。...」と必死に逃げ切ろうとしています。誰が誰を裁くのか。裁判官と被告人の立場が逆転しているようにも感じられます。「全ての王の王」の前で、やはりローマ支配者でさえたちうちができません。

しかし、私たちはこれで満足してはなりません。向こう側に立っているピラトに対するイエスの質問は、イエスの側に立っている(であろう)私たちに対する質問でもあります。ピラトを困らせる質問は、イエスを信じる一人一人が答えなければならない質問でもあります。「王であるキリスト」を祝っている私たちに対しても、イエスは「あなたは自分の考えで、そういうのですか。それとも、ほかの者が私について、あなたにそう言ったのですか」と問いているのではないでしょうか。

イエスが求めているのは心からの信仰告白です。単に決まりごとや習慣や言われたことに従う信仰であってはなりません。日々の生活の中で、イエスが自分にとっては「王」であるという個人的な経験が求められるということです。

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メッセージ - B年 年間

(ヨハ18,33b-37)

「イエスはお答えになった。『・・・わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。』」ヨハ18,37

「仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マコ10,45)と言われたイエスは、王と呼ばれるよりも、羊飼い、しかも、自分の羊のために命を与える良い羊飼いと呼ばれることを好まれたようです。典礼暦の最後の主日である「王であるキリスト」の祭日を祝う際に、それを忘れてはいけないと思います。

やはり今日読まれる福音の中でイエスは、自分自身がこの世の王たちと全く異なっているということを言われています。一人ひとりのために幸福を求めて、この幸福へと導くことのできるイエスは、この世の王や他の支配者と違って、人の自由意志を尊重しておられるので、暴力を用いて人に服従を強いるようなことを絶対にされません。イエスの唯一の「武器」というのは、真理について証しをすることなのです。

真理について証しをするために生まれたイエスは、自分の力に頼って自分の努力によって幸せになろうとしている人に、その努力の空しさや危険性を示してくださいます。と同時に、永遠に続く幸福の唯一の源である神のもとに人を引き寄せるために、神の愛の偉大さをご自分の言葉と行いによって現してくださるのです。

自分たちについての真理を示されたために、イエスに対して怒りを覚えて、神の愛に心を開くことのできなかった人たちは、イエスを十字架に付けました。十字架に付けられていたイエスは、全く無力に見えていましたし、その活動も失敗に終わったように見えましたが、不思議にもそのとき、イエスは一番力強く、真理について証しをしていたのです。

十字架に付けられているイエスの姿において、ますます多くの人々が、自分の罪についての真理、また、父である神の愛についての真理を見出すことができますように。そして悔い改めて、イエスのもとに近づくことによって、永遠の命の源である神のもとに近づくことができますように祈りたいと思います。

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お知らせ - お知らせ

使徒的勧告「喜びに喜べ」に基づく「聖性への招き」というテーマに沿って、今年の聖書週間に読みたい聖書箇所を紹介する最後の記事です。

第四章 今日の世界における聖性のしるし
教皇フランシスコは、イエスが求めている生き方に欠かせない、いくつかのしるしや心の姿勢を取り上げます。

辛抱、根気、柔和
「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしり」などの一切の悪意を捨て(エフェソ4:31)、「悪に悪を返さず」、かえって「善をもって悪に勝つ」ようパウロは呼びかけます(ローマ12:17)。自分は他者より優れていないとへりくだり(フィリピ2:3)、慎みをもってキリストに倣って苦しみを耐え忍ぶ(一ペトロ2:20-21)穏やかな強さを持つことが大切ですが、それはキリストによって平安にされた心があってこそのものです(詩編23:4、27:3、ルカ1:79、エフェソ2:14)。

喜び、ユーモアのセンス
忍耐することと、悲しく沈んだ心でいることは違います。苦しみの中でも(一テサロニケ1:6)、いつでも(フィリピ4:4)聖霊によって主のうちに喜ぶのがキリスト者としての生き方です。イエスご自身が喜びにあふれ(ルカ10:21)、また出会った人々に喜びをもたらす方でした(ルカ13:17)。私たちの喜びは、消費主義的・個人主義的な喜びではなく、分かち合い、与え合う喜びです(使徒言行録20:35、二コリント9:7)。

大胆さ、熱意
イエスが何度も繰り返された、「恐れることはない」(マルコ6:50)、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28:20)という言葉が私たちを力づけ、勇気をもって歩み続けるように支えてくれます。使徒たちも、不安や恐れから閉じこもっていたくなる誘惑に打ち勝って、自分自身を開いて踏み出すことができるよう、聖霊の助けを願って祈りました(使徒言行録4:29-31)。

共同体の中で
聖性への道は、一人で歩むものではなく、周りの人々と共に歩む共同の道です。そこには、御父と御子が一つであるような、親密な交わりがあるべきです(ヨハネ17:21)。

たえざる祈り
聖性は、神に対していつも開かれていることの実りです。それは祈りによってあらわされます。神のみ言葉は私たちの歩む道を照らす光です(詩編119:105)。また、聖なる者は、祈りの中で他者への兄弟愛を示します(二マカバイ15:14)。

第五章 闘い、警戒、識別
キリスト者の生活は、悪の誘惑に抗い、福音を告げるためのたえざる戦いです。利己心、高慢、憎しみなどの悪は、いつも私たちに襲いかかろうとしています(一ペトロ5:8)。

灯をともし、目を覚ましているというイメージで、いつも私たちが悪に対して鈍感にならないように、注意しているように、聖書の言葉は呼びかけています(マタイ24:42、マルコ13:35、ルカ12:35、一テサロニケ5:6-8)。「サタンでさえ光の天使を装う」からです(二コリント11:14)。

私たちは、何が聖霊からもたらされるよいものなのか、何がこの世の考えや悪に由来するのかを識別する必要があります(一テサロニケ5:21)。それを知ることは、神と、神がお遣わしになったイエス・キリストを知ることにつながります(ヨハネ17:3)。

(終わり)

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