メッセージ - B年 年間

第一朗読の創世記で男と女が作られた話、また福音朗読の夫が妻を離縁することについての論争で、イエスが語られた「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」という言葉を耳にするとき、どうしても夫と妻という夫婦の関係のことだけを考えがちですが、今日の朗読はいずれも、あらゆる人間関係に当てはまるものです。

私たちは、誰も一人で生きていくことはできません。誰もが「助け手」を必要としており、そしてまた誰か他の人の「助け手」となっています(創世記2:18)。夫婦、家族、友人、地域、学校や職場など、様々な人とのかかわりがあるとき、それは私が自分で一人で作り上げたものではなくて、まさに「神が結び合わせてくださったもの」(マルコ10:9)と感じられます。そして私たちは皆、一つの源である神のもとに、イエスと共に、兄弟姉妹とされています(ヘブライ2:11)。

もちろん、私たちが抱えている他の人との関係は、すべて好ましいものであるとは限りません。自分のせいなのか、相手のせいなのか、状況のせいなのか、どうしてもうまくいかないこともあります。けれでも、少なくとも自分の方からは、対等な関係を保ち続けるように呼びかけられています。すなわち、自分が利益を獲得し得をするために相手を利用するような、いびつな人間関係は、神のもとにある兄弟姉妹、お互いをわが身と感じるほど一体である夫婦、助け合いは、神が結び合わせてくださった人間同士の関係からは、かけ離れています。「神が私たちに望まれる関係」とはどのようなものか、自分の日常のかかわりの中で、考えたいと思います。

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知恵2:12, 17-20   ヤコ3:16−4:3   マコ9:30-37

福音書の中に、イエスは、誰が一番偉いかと権威を争っている弟子たちに、一人の子供 を抱き上げながら、「私の名のためにこのような子供の一人を受け入れるものは、私を受け 入れるのである」と言われました。自分たちの間に誰が一番偉いか、誰が一番信頼される、 誰が一番重要なポストに就くかと議論している弟子たちに、イエスは単に言葉で語るのでは なく、わざわざ一人の子供を抱けあげながら弟子たちに語りかけるのです。イエスは何を示 したかったのでしょう。

「抱き上げる」というシンボリック(象徴的)な動作は、イエスの言葉にもあるように 「受け入れる」、そして「祝福する」という意味合いがあります。子供を抱き上げながら 、「私の名のためにこのような子供の一人を受け入れるものは、私を受け入れるのである」 と言われたイエスが弟子たちに伝えたかったことは、彼らがお互いに受け入れなければなら ない、そして、お互いに祝福しなければならないということです。それを目に見える形で弟 子たちに示していたのです。目に見える形で、「このように御父は愛する子を受け入れて、 祝福するのです。このように、神様は人間一人ひとりを無条件に受け入れて、祝福するので す。だから、同じようにあなたたちも互いに受け入れて、互いに祝福しなければならない、 ということをイエスは目に見える形で弟子たちに示したかったのでしょう。

ところで、お互いに祝福するということはどういう意味なのでしょうか。祝福は、英語 では、to bless という言葉があります。ラテン語ではbenedicereという言葉が表現されていま す Benedicereは、二つの言葉からなっている、bene(良い)とdicere(話す)という意味で す。つまり、誰かを祝福するということは、その人について良いことを話すということです 。子供を抱き上げたイエスが弟子たちに示したかったことは、弟子たちの間で、誰が一番偉 いか、誰が一番正しいか、誰が一番ふさわしいかと議論し互いに比較するのではなく、互い にありのままに受け入れて、お互いの良いことを話して、お互いに祝福しなければなりませ ん。お互いが神の愛する子だからです。

しかし、私たちも生活の中で体験しているように、積極的に人を祝福し、積極的に人の 良いことを話すことはそう簡単なことではありません。それよりは、人の悪口をしたり、人 の欠点を追求したりする方が多いかもしれません。

心から人を祝福するためには、やはり自分自身が祝福されるものという確信を持たなけ ればなりません。つまり、日々祈りの中で「あなたは私の愛する子」という神の祝福の声を 聞くことが必要です。自分は神の愛する子と確信を持っている人だけが、心から人を祝福す ることができます。人間は心の中にあるものを外に移しているのです。

ある日、太ってしまったブッダが木の下で瞑想していると、その近くに一人の若者が取 り掛かっていました。太っているブッダを見て、若者は「あなたは豚みたい」とブッダに向 かって言いました。仏様はゆっくり目を開けて、若者じっと見て、そして微笑みながら、「 あなたは神様みたい」と若者に言いました。若者は驚いて、「なぜそう言ってくれるの?」 と尋ねました。ブッダは答えました。「我々人間は自分自身の心の中にあるものを見ている 。私は毎日神様のことを考えている。だから目をあげて、あなたを見る時に、あなたは神様 のように見える」。

人への見方は、自分が日々神様と培う関係に大きく関わっています。

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今日の朗読では、まず「信仰」というテーマが浮かび上がります。使徒ヤコブが言うように、死んだものでないようにするために、信仰にはそれらしい行いが伴わなければなりません。しかし、この信仰の業とはいったいどういうものでしょうか。主に3つ考えられます。

• 証し:聖ペトロのように信仰はイエスを証しし、宣言します。理屈で何かを証明するのではなく、時々何を証ししているのかを自分でもよく分からない時があります。他の福音書には、その証言はペトロ自身から来た知恵ではなく、彼に御父によって表されたものとしてイエス様に褒められた、と書いてあります。この神様の啓示に心を開き、それに対して敏感であるのは信仰です。

• 艱難に耐え忍ぶ力:信仰は何か超自然的なものや奇跡を信じる能力ではなく、むしろ今の私たちに理解しがたい運命を受け止めるための支えです。言ってみれば、眼差しをもっと遠く向けて、目の前のことで一々揺るがされないことを意味します。それは結局聖ペトロにすぐできなかったことです。メシアが苦しみを帯びなければいけなかったことを受け止めるのは信仰の内にしかできませんし、私たち一人ひとりも常に楽に生きることができないことを理解するために信仰が必要です。

• 慈善:信仰は、神様について素晴らしく語ることではなく、神様が愛しておられる人を共に愛することなのです。単なる福祉活動とは違いますが、イエスに従い、イエスが自分を放棄して人々に支えたのと同じように、信仰者の私たちも何らかの形で「信仰のゆえに」困っている人を助けないと、私たちの信仰は独りよがりや、空っぽのものになってしまいます。

以前にもまして、今の時代は何についてでも様々な見方があり、皆が自分の意見を持ち、強調したがる時代です。教会においても、メシアとは誰か、教理や道徳は普遍的なものかどうか、教皇の権限はどこまであるかなど、色々な好都合の個人意見や自己主張が氾濫しています。しかし、それは本来の姿ではありません。多様性がある中でも、答えは神様が啓示したもの、時々受け入れがたいものです。メシアである他に何者でもないイエス・キリストを今日的状況に合わせて、いつも何か違うもの(哲学者、宗教の創始者、道徳の指導者、預言者、政治的な改革者・・・)としてだけ解釈するという誘惑に耐えるためにも信仰が必要なのではないでしょうか。

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この主日の三つの朗読は、いずれも神が命じられる言葉とその実践がテーマになっています。

第一朗読の申命記では、主が教える掟と法を忠実に守るよう、約束の地に入ろうとしているイスラエルに語りかけられています。

第二朗読の使徒ヤコブの手紙では、「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい」「御言葉を行う人になりなさい」「聞くだけで終わる者になってはいけません」という言葉に見られるように、良い賜物を与えられる、父である神からの言葉を実践するよう招かれています。

そして福音朗読のマルコ書では、ファリサイ派の人々が食事の前に身を清めることに固執して外側の汚れにこだわっていながら、内面の汚れをおろそかにしているのをイエスが見て、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と非難しています。

私たちは「神に従って正しく生きたい」と考えても、まっすぐ歩いているようで、いつしか横に逸れて行っていることがあるかもしれません。知らないうちに神の掟が自分の掟にすり替わってしまっているかもしれません。そしてその曲がった尺度を、よかれと思って人に押しつけているかもしれません。ですから、私たちはいつも神の御言葉に耳を傾けるよう心がけます。何が私たちに語りかけられているかを識別し続けます。自分に批判的であり続けるのは簡単なことではありませんが、自分のあり方に無自覚・無責任で、「外側」の決まり事を守ることだけにとらわれるなら、イエスが語られているように、私たちの中から出てきているものが私たち自身を汚し、周りの人を汚してしまうことにつながります。

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ここ何週間に分けて、ヨハネ福音書6章の「命のパン」についての話を読み続けてきました。そこで特に印象的だったのは、1)イエスが御父の命の与っていると同じように、その命を人々とも分かち合いたい、自分を信じる人をその大きな交わりに取り入れたい、命そのものに与らせてあげたいという熱い想い、それから、2)命の糧は旧約のマンナと違って、ただ神から与えられるのではなく、イエスが捧げるもの、つまり世の命のために自分自身を捧げるものとして与えられるものであり、イエスの苦しみと密接な関係を持っている点です。

このような話を聞くと、当時のユダヤ教の人々だけでなく、現代人も首をかしげる人がいます。イエスが自分を糧として与えて、後代に残す、さもないと世には命と力がないなんて、象徴的な話しに過ぎないとか、あるいは全く馬鹿げた話だとか、という意見が稀ではありません。なので、今日の福音で見るような反応が当然です。多くの人が去っていきます。イエスの教え全体、特にその道徳的なメッセージも魅力的なものですが、もっと本質的な何か、彼の生きた現存である秘跡がなくなると、人々には残る理由もなくなってしまいます。ただ時々集まり、楽しくて他人と信仰を分かち合い、歌を歌うなど、信仰生活にはとても不十分です。

第一朗読と非常に似ていますが、神の呼びかけに従うのは自由です。勝手に選ぶ選択肢だという意味ではなく、最初には必ず神/イエスの無償の呼びかけがあります。しかし、人間に出来るのは、少なくとも、この呼びかけを自由に断るということです。神は人間を強制して、奇跡などのような超自然的な証拠によって強引に信仰を引き起こし、導き従わせるようなことを好みはしません。ですから、宗教には安易に理解できない部分もあることがとても重要です。信仰に関する事柄はまず理解されるのではなく、経験されるものなのです。中途半端な信仰者として生きるとか、好きな部分だけ選んでそれを実現するならば、むしろ自由に去ったほうがマシなのかもしれません。

現代、もしかしたら人々が聞いていられない話、弟子だった人でも躓《つまず》いてしまう話というは、御聖体の話だけではなく、今日の第2朗読の根本的なメッセージなのではないでしょうか。家族は一人の男性と一人の女性が一体となったことを意味するという話。簡単に論理的に説明できないけれども、その絆というのは平等な関係でも支配関係でもないものだという話。一人は自分を低くして、相手に服従し、もう一人は相手を守り、相手のために自分を捧げ尽くすという話。冒頭と比べて、ずっと同じ道筋です。キリストが教会をどれほど愛したかを実感していなければ、結婚において愛の絆で誰かと一生結ばれることの意味を理解しようにもできず、むしろ「難しい話だ」「現代に合わない話だ」としか思えないでしょう。しかし、これより良い話、他に行けるもっと良いところはありません。

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