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日本のカトリック教会は、毎年11月の第3日曜日からの1週間を「聖書週間」としています。今年は11月19日~26日で、テーマは、教皇フランシスコのお告げの祈り(2023年2月12日)で引用された「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)となっています。カトリック中央協議会からお知らせが出されており(リンクはここ)、毎年発行されている小冊子『聖書に親しむ』のPDF版も同ページからダウンロードできます。

この聖書週間に合わせて、私たちも小冊子を作成しましたので、どうぞご覧下さい(ここをクリックすると開きます)

 
メッセージ - A年 年間

今日の福音でイエスはタラントンのたとえを話されています。たとえの中のタラントンは、神から人に与えられた賜物を指し、たとえ話では5タラントン、2タラントン、1タラントンを預かった者が登場します。そして1タラントンを土に隠した僕に対し、主人は「怠け者の悪い僕だ」としかります。一見、不公平で理不尽に見えますが、ここで注意しなければならないのは、タラントン自体大きな額であること、そしてタラントンが神から与えられたものであることです。私たちが与えられた才能、能力は与えられたもので、分かち合うべきものであることを忘れてはなりません。一方で私たち自身、分かち合うような才能を持ち合わせていないと感じることがあります。また劣等感から、自分の持っているものを分かち合うことができないことがあります。

福音の中でイエスは、2タラントンをもうけたものに対しても「忠実でよい僕だ」というように褒められています。神にとって、私たちが感じている才能や能力の差は、些末なものであること、そして神にとって私たちがどれほどのものを持っているかは問題ではなく、自分のもっている財産、能力、才能、時間を神のため、そして周りの人々のために分かち合おうとする信仰を、神はいつも受け入れてくださるのだということを忘れてはならないのだと思います。

私たちが持っているものを、神に、そして周りの人々に分かち合うことができるよう祈り求めていきましょう。

 
メッセージ - A年 年間

花婿が花嫁を迎えに来るのを待っている10人の乙女の内に、5人の愚かで、5人は賢い乙女たちでしたが、10人とも花嫁の家で一緒に待っていました。10人ともみんなそれぞれ「ともし火」を持っています。婚礼に行く乙女たちなので、おそらく皆、おしゃれして待っていることでしょう。しかし、花婿が来るのが遅れて、待ちくたびれた10人は全員「眠り込んでしまいました」。この時点までは、どちらかが賢いものか、どちらかが愚かなものかは誰も知らない、区別することができません。

真夜中になって、花婿の到着を知らせる叫び声を聞いて、それぞれ慌ててともし火を整えます。その時に、初めて誰が愚かなのか、誰が賢い者なのかが分かります。愚かな者と賢い者の差がその時にはっきりと分かります。愚かさと賢さの分かれ目は「油」を用意したかどうかということにあります。愚かな5人の乙女が、気付いたときにはもう遅かったのです。普通ならば、婚宴に少し送れるくらいなら、入ることが許されるのですが、イエスがたとえ話の中に語られる婚礼は特別なものです。油を用意しなかったために遅れてきた乙女たちに対して、「はっきり言っておく、私はお前たちを知らない」と厳しく断りました。最終的に、5人は楽しみにしていた婚礼に参加することができませんでした。

第1朗読の知恵の書の言葉で言い換えれば、賢い5人の乙女たちは知恵のある人達です。普通の意味で、「知恵」という時に「知識、認識」と同時に、「それを正しく用いる、行動する」という観念的な側面と実践的な側面があります。それが普通に考えられる知恵ですが、聖書の中(特に今日の第一朗読の中)の「知恵」は全く違う特徴があります。それは、知恵は知識とその実践によって獲得されるものではなく、一人の人格です。「獲得される」ものではなく、「出会う」ものです。そして、知恵は「神」ご自身です。「知恵を愛する人には進んで自分を現し、探す人には自分を示す。求める人には自分の方から姿を見せる。知恵は自分にふさわしい人を求めて巡り歩き、道でその人達にやさしく姿を現し、深い思いやりの心で彼らと出会う」。知恵は出会うものです。神ご自身です。

そうであれば、賢い5人の乙女、知恵ある乙女たちは、「知恵」を探し、「知恵」に出会った人たちです。賢い乙女たちにように、花婿と花嫁と共に婚礼に参加するために、先ず用意しなければならない、やっておかなければならないのは、日々「知恵」そのものを探し、神ご自身と出会うことです。

 
メッセージ - A年 年間

イエスは律法学者やファリサイ派の人々について「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは見倣ってはならない」と語っています。そこには「言うだけで実行しない」という、彼らの言葉と行いに乖離があることへの批判がありますが、それは第二朗読でパウロがテサロニケの教会に向けて語ったことに通じます。テサロニケの人々は、パウロたちが語る言葉を聞いて「それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」と言われています。神の言葉を神の言葉として語るとき、それを語る者も聞く者も、神の前に謙虚になります。しかし、律法学者やファリサイ派の人々は、神の言葉を語りながら、それを自分の権威の裏付けのように用いました。まさに神の言葉を人の言葉のように、あるいは自分の言葉のように語り、先生と呼ばれ、仕えるよりも偉くなることを望み、へりくだらずに高ぶりました。第一朗読のマラキの預言でも、神とイスラエルの共同体の仲介者である祭司たちに、主の名に栄光を帰することが祝福につながる道であると言われています。

私たちが神の言葉を語るとき、そこにいるのは神でしょうか、それとも私たち自身でしょうか。私たちは神の言葉に仕えているでしょうか。人に仕えさせてはいないでしょうか。

 
メッセージ - A年 年間

きょうの福音にはキリスト教にとって、最も大事な「愛の掟」について記されています。「神を愛し、隣人を愛す」という最大の掟です。この二つの掟は切り離すことができない神の御心として、私たちの前に置かれているとイエス様がおっしゃっています。

きょうの説教で注目したいことは、主イエスが語った第二の掟の内容です。主イエスは、「隣人を自分のように愛しなさい」と言っていました。まず、この「隣人を自分のように愛しなさい」というのは、レビ記19章18節の「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」から来ています。

まず、主イエスが語った、「自分のように」という言葉を理解したいと思います。主イエスは、「自分のように」と言っていましたが、それは、「自分を愛するのと同じ程度に熱心に」ということではなく、「自分を愛するのと同じように無条件で」という意味です。そして、その無条件の愛の根拠は神の愛です。神がそのような質の愛をもってわたしたちを愛してくださっています。神は私たち一人ひとりの命を掛け替えのない存在として大切にしてくださっているから、私たち自身も自分を掛け替えのない存在として大切にしなければなりません。それが他者への愛の始まりです。それほどの愛を持つならば、他者への愛を実行することができるのです。

では、自分を愛するとは何でしょうか?「自分を愛する」ことは、先ず、「ありのままの自分」を受け入れるということです。自分を前向きに深く深く、どこまでも否定せず、全ての感情と身体のすべての部分を愛しむことです。苦しみも、悲しみも、楽しみも、喜びも、恐れも。失敗も、成功も、怠惰も、努力も、才能も、無能も。どんな自分にも、良い、悪い、短所、長所の優劣をつけず、どうにかしようとさえ思わず、ただ、今、この状態で在る自分を、受け止め、認め、有難いと感じることです。

是非、素直にとことん自分と向き合い、意志を強め、自分らしく生き伸びていきましょう。自分と向き合うことによって、弱い部分を認め、同時に、自分の中にある力の原点を見つけ出すことができるだろうと思います。それが「弱い自分に打ち勝ち」=「強い自分を作る」という幸せな人生の一つの方法です。

どうか、自ら自分を愛し、また、他者を自分のように愛して、そして、言うまでもなく先に私たちを愛してくださった神を愛しましょう。アーメン。