メッセージ - A年 年間

この主日の朗読は「考え直す」こと、言い換えれば「回心」することの重要性を強調しようとしています。

福音朗読では、イエスのたとえに登場する「兄」も「弟」も父の願いに素直に従った訳ではありません。「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」という父親の言葉に対して、兄は「嫌です」と真っ向から父の言葉に逆らいました。他方、弟は「お父さん、承知しました」と言いながら、実際にぶどう園には行っていませんでした。彼は父親を裏切ったということになります。どちらも父親に対して相応しくない態度をとったということです。

つまり、イエスがこの譬えを通して祭司長や民の長老たちに先ず気づいて欲しかったのは、人間は誰でも神に逆らう罪人だということです。イエスが祭司長や民の長老たちに自覚して欲しかったのは、「罪人だ!」と彼らがレッテルを貼る人々(徴税人や娼婦たち)だけではなく、彼ら自身も「罪人」だということです。なぜなら、彼らは人前では「神に従う」ふりをするが、実際に行いは伴っていません。イエスはこの譬えを通して「回心」を呼びかけていますが、回心するために、人は自分を「罪人」だと認めることが必要だということです。神の前に。他人の前に。

徴税人や娼婦たちが正しい人々とされるのは、彼らがイエスの言葉を聞いて、これまでの誤った態度を「考え直した」からです。人間はみんな罪人です。しかし、その誤った道、誤った決断、誤った行動を「考え直す」ならば、神は必ず憐れみを注いでくださいます。神は「恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される方」(ヨナ4:2)だからです。第一朗読のエゼキエルの言葉にあるように、「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる」。人が「考え直す」ことで、神は下そうとする災いを「思い直す」ことすらできます。

第二朗読のパウロの言葉に示されるように、そのために人は神の前に「へりくだる」ことが求められています。神の前に自分を「罪人だ」と謙虚に認める人だけが「回心」への呼びかけに答えることができます。そして、神の前にへりくだる模範は、御父の前にへりくだる御子イエスご自身です。

人は自分が正しいと主張したがります。しかし、神の前に本当に正しい人とは、一切過ちを犯すことがない人ではなく、謙虚に自分の過ちを認め、考え直す勇気を持っている人だということです。

 
メッセージ - A年 年間

今日の福音箇所で、イエス様はぶどう園で働く労働者の例え話を使って、神の国のあり方、神様の心について語られています。神の国のあり方、そしてぶどう園の主人である神様の心は、一般的なビジネスの価値観から見ると、不公平ではないかと思ってしまいます。しかし、神の国では神様は愛に基づいて賃金を与えてくださいます。賃金は、救いを意味します。

マタイ福音書の中では、神の国のあり方、神様の心の「気前の良さ」が描かれていました。マタイは「主人は夜明けに出かけて、1日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った」と書きました。これはどういうことでしょうか。神様は、永遠の命のために、自ら人を探してまで、恵みを与えてくださる、実に気前の良い方だ、ということです。この「気前の良さ」で多くの人々を救われるのです。

また、この例えの興味深いところは「1日につき1デナリオン」という賃金を労働者に与えることです。どんな人も、「1日につき1デナリオン」というのは一般的な考えから見ると、不公平に映ります。しかし、神様からすると、どのぐらい神様を礼拝したか、偉い人かどうかは関係ありません。全ての人へ同じ恵みを与えてくださいます。その恵みに気づき、自分に与えられた恵みに感謝できるかが大切なのです。

今日の福音書は、わがままは言わず、個人的の救いだけではなく、隣人の救いも考えなければならない、他者を妬まない、自身の持っているものに感謝して、神様に奉仕する心や、やる気を大事にするというメッセージを教えてくれました。神の御前では全ての人が同じ、それは神の愛する子だからです。ですから他者の恵みをうらやんだり、妬んだりして敵として見るのではなく、兄弟姉妹同士、互いにそれぞれの恵みを尊重し、支え合いましょう。どうか神様のこの心に気づき、神様からの祝福がみなさんの上に豊かにありますように。

 
メッセージ - A年 年間

今日の第一朗読(シラ27:30-28:7)と福音朗読(マタイ18:21-35)は、「ゆるし」がテーマになっています。福音朗読箇所のたとえ話において、王が家来の莫大な借金を帳消しにしてゆるしたことと、この家来が仲間のわずかな借金をゆるさなかたったことが対比されていますが、ゆるすかゆるさないかは、その時一回だけのことではなくて、それまで、そういう決断をするに至るまでにつくられたお互いの関係が、実は重要ではなかったでしょうか。

王様はおそらく、それまで家来が忠実に自分に仕えてくれたことを考慮して、その借金を帳消しにしました。逆に、その家来は、金を貸した仲間との間に以前から友情や信頼を感じていたようには、読み取れません。ただ同僚という立場で、お金の面でのつながりがあるだけだったのではないでしょうか。

「兄弟を何回赦すべきでしょうか。七回までですか」というペトロの問いに対して、「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」とイエスが答えられた、その言葉が示しているのは、やはり、ゆるしとは、何かがあったときに一回ゆるしてそれでおしまい、というのではなく、ゆるすことのできる関係をつくり、保ち続けること、常に愛し続けることが大切だというメッセージではないかと思います。

 
メッセージ - A年 年間

人間関係において、最も難しいことの一つは、「人を赦すこと」です。自分と相手との間に、何かトラブルや問題が起こった時、「ごめんなさい」とか、「すみません」という一言だけでも、なかなか言えない時があります。あるいは、言えるようになるまでに、時間がかかる時もあります。


このような状況において、キリスト者である私たちはどう対処するべきでしょうか? 聖書によると、赦すべきだということです。エペソ4:32の手紙にはこう書いてあります。「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなた方を赦してくださったように、互いに赦しあいなさい。」主イエスご自身も聖書の中で何度も何度も、「互いに愛し合いなさい」と言っていました。愛し合うためのカギは「赦し」だと思います。要するに、「愛し合うこと」とは「赦し合うこと」です。そして、「赦し合うことは最高の愛の表現だ」と言っても過言ではないでしょう。

 

きょうの福音の前半を読んでみると、主イエスは、「兄弟を赦す方法」に関して、4つのステップを教えてくださいました(15~17節)。ここで注目したいことは、一つ目の段階です。主イエスは、「兄弟があなたに対して、罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」と言っています。まず、「一対一で、二人だけのところで忠告する」ということです。ここで、強調したいことは、主イエスは、どちらが正しく、どちらが間違っているかにはあまり関心を持っておられないのです。大切なのは、「一対一で、心を開いて、互いに認め合い、赦し合う」ということです。「裁きの気持ち」で対応するのではなく、「愛を持って立ち向かうこと」が大事です。しかも、目の前にいる相手を「敵」として見るのではなく、「友」として見ることが赦しの最高の方法です。

 

イエスは、十字架上に付けられた時、自分を殺そうとしている人々に向って、「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているか、自分たちでもわからない」と祈られました。ここで、主イエスがその兵士たちの行為を「認める」とか、「水に流す」とか、「なかったようにした」という意味ではありません。主イエスは、相手の事を「敵」として見ているのではなく、「友」として見ているのです。ですから、目の前にいる「友」が罪の暗闇の中に落ちてしまわないように、皆一人ひとりの心や魂を磨くため、赦しと救いの恵みを願っておられたのです。

 

きょうの第二朗読ではパウロは「互いに愛し合うことは律法を全うするものだ」と言っていました。「赦し合うことは最高の愛の表現だ」と言うなら、「互いに赦し合うことはすべての律法や掟を全うすること」になるということです。どうか、私たち自身も複雑な関係の中におかれた時、愛を持って、相手を心から赦すことができますように。 人を赦すことには非常に困難ですが、不可能ではありません。主イエスが、「無条件の赦しと真の愛」をお示しになったのは、「神殿」からではなく、「十字架上」からです。「快適な空間」からではなく、「痛みや苦しみの所」からです。

 

「赦し...」は「難しい...」だが「美しい...」、

「赦し...」は「辛い...」だが「報い...」がある。

「赦し...」は「苦しい...」だがそこに「救い...」が付いてる。

「愛を持って、互いに赦し合いましょう」。アーメン。

 
メッセージ - A年 年間

今日の福音の中で、イエスが弟子たちに言われた「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」という言葉は、現代を生きる私たち一人ひとりにも向けられているメッセージであると思います。

自分の十字架、というと、想像するのは、生きる上での苦痛や困難、あるいは自分の過去など、人それぞれに思い浮かぶものがあります。そうした、本当は背負いたくないものを背負っていく、その姿勢は人間として褒められるべきであるでしょう。しかしそればかりを私たちの生活の中心としてしまってはなりません。自分にとっての様々な十字架を背負いながらも、自分を捨ててイエスに従うことが求められているのです。

イエスに従う、キリスト者としての生き方にも様々な形がありますが、イエスは私たちに最も大切にすべき掟として「神を愛すること」そして「隣人を自分のように愛すること」という2つのことを教えています。すなわちイエスに従うとは、隣人、自分以外の誰かのために、自分を使うことであると言えます。この事を今日の福音に当てはめて考えれば、自分の十字架を背負いながらもイエスに従う、という生き方は、自分をとりまく様々な事柄がある毎日の中でも、自分ばかりのことだけでなく、他の人のために自分の時間を使う、自分をささげる、その心を忘れずに生きる、ということではないでしょうか。自分にとって忙しい時、悩みがある時など、自分のことだけで頭がいっぱいになる時には、私たちは他人に構う余裕が無くなってしまいがちです。ですが、そんな時にこそ、自分のことだけに囚われるのではなく、どんな小さなことであっても、他の人の助けとなれる努力をしてみる、他人のことを考えてみる、それが今、私たちが生きている中で「自分の十字架を担いつつも、イエスに従う」ということに繋がっていくのではないかと思います。

今日は特にこの事を、弟子たちと同じように、イエスからの私たちへのメッセージであると受け取り、それぞれの生活の中でも、イエスに相応しいと言える生き方を、私たちが歩んでいくことが出来るよう、その助けを願いながら共に祈りましょう。