メッセージ - A年 復活節

話し合い論じ合っている二人にイエスが近づいてきたときには、一緒に並んで歩いているのに目が遮られていて、それが誰だかわからなかった。けれども、心が燃えてきた彼らがイエスを引き留め、共にした食事の席でパンが裂かれたときに、二人の目が開け、イエスだとわかったが、その時にはイエスの姿が見えなくなってしまう。目の前にいるときにはイエスだと感じられず、イエスだとわかったら見えなくなる、見えているときは目が遮られていて、目が開かれると見えない、という皮肉な出来事でした。エマオへ向かう弟子たちと復活したイエスとの出会いの有名な物語(ルカ24:13-35)です。

私たちの目の前にあることは事実ですが、見えていることだけが真実なのではありません。私たちの心を燃やすのは、往々にして目には見えないものです。

 
メッセージ - A年 復活節

弟子たちは家の戸に鍵をかけて中にこもっていた。この福音朗読箇所(ヨハネ20:19-31)の場面では、復活の日とそれから8日目の2回、その様子が描かれていますが、師であるイエス様を亡くした後の弟子たちのことを考えると、「鍵がかけられて閉じられた家」という状態は、弟子たちがおかれた閉塞感を表しているように感じられます。自分たちに救いをもたらしてくださると慕っていた主が、捕らえられて、罪に定められて、十字架の上で残酷に惨めな姿をさらされて殺された。彼に付き従っていた自分たちも、いつ同じような目に遭わされるかわからない、これからどうしたらいいのか、不安と恐れに悩まされながら、暗く狭い家の中で震えている様子が目に浮かぶようです。

けれども、そこにイエス様が現れて、雰囲気が一変します。鍵がかかっていたのに、やってきて、真ん中に立たれて、「あなたがたに平和があるように」と言われました。弟子たちは「ユダヤ人を恐れて」閉じこもっていたのに、「主を見て喜んだ」と言われています。恐れが喜びに変わりました。ユダヤ人たちに捕まる危険性がなくなったわけではありません。けれども、それにもかかわらず、彼らは喜びを得ました。

ご復活は喜びです。私たちは、「ご復活おめでとうございます」と言います。この世界に生きている私たちにとっての、その喜びは、恐れや、不安や、悲しみや悩みがなくなることではなくて、恐れや不安や悲しみや悩みがあっても、私たちは孤独にうち捨てられることはないということです。その中で、立ち上がり、立ち向かう勇気が与えられるということです。

恐れの中で喜びを得た弟子たちは、閉じこもっていた家から外に出て、全世界に行って、福音を告げ知らせました。私たちは、どんな力をいただいているでしょうか。今、どんな力をいただきたいと願うでしょうか。

 
メッセージ - A年 四旬節

今日の福音朗読の箇所(ヨハネ11:1-45)は、一部省略されて朗読されることもありますが(11:3-7、17、20-27、33b-45)、それでも十分に長いお話です。それだけ、このラザロに関する奇跡物語に重きが置かれているということです。これは単なる一回限りのいやし、よみがえりの話ではありません。その背後には、イエスとマルタ、マリア、ラザロの兄弟たちが以前から築き上げてきた友情があります。その深い人間関係があるからこそ、これほど長い話として描かれているのです。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(11:5)と言われているとおりです。そのため、彼らの親しさを裏付けるように、ラザロの死に直面したイエスの「憤り」「興奮」という言葉で表現される感情がたびたびあらわにされています(11:33、38)。

イエスはマルタ、マリア、ラザロと共に喜び、共に楽しみ、良い時を過ごして良い関係を築いてきたからこそ、ラザロが死んでしまったときに、憤りを感じるほど心を動かされました。私たちも、四旬節にキリストの十字架の苦しみに与る上で、まずイエスと、神と良い関係を築くことが大切です。まず日々の生活の中で、喜びや感謝がなければ、自分の十字架を担ってイエスについて行くことはできません。

四旬節には犠牲や節制が勧められ、イエス・キリストの受難や十字架が強調されますが、苦しみそのものが目的なのではありません。苦しみがあっても、そこに私たちは愛を見出し、喜びをも忘れずに歩んでいきます。そして、イエスの十字架の道は、復活へと続いています。

 
メッセージ - A年 待降節

 

今日の福音の中では、イエスが通っておられた時に生まれつき目の見えない人に会って、目をお癒しになったと書かれています。目が癒された人は物乞いをしていて、他の人によく知られていた人であったので、突然の癒しは公然の話題となります。さらに、「わたしがそうなのです。」と言い「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」と明かします。

聖書の福音書に記されている人の癒しは、体の癒しだけではなく、心の癒しもあります。それは、信仰による新たな生活を始めることによって、完全な癒しとなります。完全な癒しを受けた盲人は、「あなたは人の子を信じますか」と、キリストが問われた言葉に「主よ、信じます」と答え、キリストの前にひざまずきます。

四旬節は私たちの病の癒しの時期です。自分の心の目を開き、キリストがお示しになった救いの道を見分ける事ができるようにと祈る時間なのです。四旬節の始まりには頭に灰をかけていただき「悔い改めて、福音を信じなさい」と呼ばれました。四週間が経った今日、聖書の言葉に示された信仰の道はどれぐらい進んだでしょうか。回心のための信仰の道は、断食と祈り、聖書の言葉、慈善の業の実行によって進める道です。神様の恵みのチャンスを無駄にしたことはありませんか。そして、第二朗読の中に書かれた使徒パウロの言葉によると、暗闇から光へ進む道なのです。また、キリストが盲人の目につけた土を「行って、洗いなさい」とはどのような意味でしょうか。それは、私たちの暗闇の原因となる罪に気づかせていただき、赦しの秘蹟を受け、信仰の光に照らされる新たな人生のスタートを目指すという意味ではないでしょうか。

それでは、耳の中に響いている神の御言葉を心の中にも響かせていただき、癒された人生になるように祈り求めましょう。

 

 
メッセージ - A年 四旬節

今日の福音朗読(ヨハネ9:1-41)では、イエスが生まれつき目の見えない人をいやし、それがファリサイ派の人々にとって問題となった、というエピソードが読まれます。この盲人は、人々にとって「座って物乞いをしていた人」(9:8)であり、何より「全く罪の中に生まれた」者(9:34)という先入観に基づいたレッテルを貼られて呼ばれました。しかし、イエスは目の前にいる彼とまっすぐに向き合い、彼を「あなた」とだけ呼び、「神の業がこの人に現れる」(9:3)と語ります。

また、ファリサイ派の人々はイエスのことも、安息日を守らない罪人である(9:16、24)と非難しましたが、一方でいやされた盲人はイエスを「預言者」(9:17)と呼び、「神のもとから来られた」(9:33)と確信し、人の子を信じる(9:35-38)と宣言しました。

イエスと盲人という二人の関わりは、第三者のファリサイ派の人々にとっては、罪人同士の罪深いやりとりでした。けれども、当事者の二人にとっては、神の業を実感させる恵みの交わりだったということです。本当に価値あるものを見出すことは容易ではない、ということは、第一朗読のサムエル記(サム上16:1b、6-7、10-13a)でも強調されています。預言者サムエルが新たに王となるべき人を探しているとき、彼は「容姿や背の高さ」にとらわれましたが、神は「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(16:7)と語ります。

私たちの目は、何を見ているでしょうか。私たちの目は、何を見ているでしょうか。目の前の小さな人との出会いに、日常のありふれた出来事の中に、神の働きを見出しているでしょうか。