メッセージ - A年 年間

福音朗読箇所(マタイ10:37-42)の冒頭、「わたしよりも父や母(息子や娘)を愛する者は、わたしにふさわしくない」は、非常に厳しい言葉を突きつけられたように感じます。けれども、「愛」の意味を少し掘り下げると、感じ方も変わってくるかもしれません。

イエスが語られる「愛」は、単に感情的に「好き」であることではないと言われます。キリシタンの時代には、「愛」は「ご大切」という日本語に翻訳されたそうです。「愛する」とは「好きになる」ことではなくて、目の前の相手を「大切にする」ということです。ですから、たとえその相手を心情としては好きではなかったとしても、自分とは関わりがなかったとしても、敵であっても、愛することができます。

そして、イエスが「わたしを愛する」と言うときの「わたし」は、ここでイエス個人だけではなく、「あなたがた」(=弟子たち)や「わたしを遣わされた方(=父である神)」、更には「小さな者の一人」と重ね合わされます。

血のつながった家族を大切にするのはあたりまえです。けれども、わたしたちはそのまなざしを、心づかいを、もっと外に広げていくように招かれています。隠れたところで小さくなって愛に渇いている人に、嫌いで見たくもない人に、キリストの「愛」を向けるように呼ばれています。

 
メッセージ - A年 年間

この主日の福音朗読箇所(マタイ10:26-33)では、「恐れるな」という力強い言葉が印象的です。このエピソードは、先週の主日の朗読箇所である「12使徒の選びと派遣」(マタイ9:36-10:8)と、その後の「迫害の予告」(マタイ10:16-25)に続く箇所ですので、弟子たちが宣教に出て迫害されても「恐れるな」ということです。

私たちは、何が正しくて良いことか、どう行動して何を言うべきか、頭ではわかっていても、恐れや恥ずかしさのために勇気を出せず、躊躇してしまうことがあります。そして、手を差し伸べられなかった、一歩を踏み出せなかった後悔と自責を抱えて日々を過ごしています。

イエスはそんな私たちを断罪して責めるのではなく、「恐れるな」と励まします。「敵前逃亡はゆるさない」という脅しではありません。「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」(10:32)と語っているとおり、私たちの仲間として、私たちの隣に立って共にいてくださるからです。その励ましに応えたいと思います。

 
メッセージ - A年 復活節

福音朗読の箇所(ヨハネ14:1-12)は、最後の晩餐の席で、イエスが弟子たちに語る場面が読まれます。その中で、イエスは弟子たちに「わたしは父の家に、あなたがたのために場所を用意しに行く」と言います。この弟子たちのための「場所」は、「道」を歩んでたどり着く終わりの時のことを指しているのかもしれませんが、同時に「道」を歩み続けるための力を得る場所でもあります。イエスは、その場所を「父」と自分自身の結びつきと関連づけて語ります。

生きていく上で、誰でも「居場所」を必要としています。安心できて、ありのままの自分でいられる、自分が大切にされている、愛されていると感じられる場所です。そのような居場所があるからこそ、力を得て、勇気を与えられて、そこから一歩踏み出していくことができます。困難な道を歩んでいくことができます。

師であるイエスがいなくなった後、弟子たちが迫害の中でも主の道を歩み続けられたのは、確かな居場所があったからでした。私の居場所はどこにあるでしょうか。私は誰かにとって愛を感じられる居場所となることができているでしょうか。

 
メッセージ - A年 復活節

話し合い論じ合っている二人にイエスが近づいてきたときには、一緒に並んで歩いているのに目が遮られていて、それが誰だかわからなかった。けれども、心が燃えてきた彼らがイエスを引き留め、共にした食事の席でパンが裂かれたときに、二人の目が開け、イエスだとわかったが、その時にはイエスの姿が見えなくなってしまう。目の前にいるときにはイエスだと感じられず、イエスだとわかったら見えなくなる、見えているときは目が遮られていて、目が開かれると見えない、という皮肉な出来事でした。エマオへ向かう弟子たちと復活したイエスとの出会いの有名な物語(ルカ24:13-35)です。

私たちの目の前にあることは事実ですが、見えていることだけが真実なのではありません。私たちの心を燃やすのは、往々にして目には見えないものです。

 
メッセージ - A年 復活節

弟子たちは家の戸に鍵をかけて中にこもっていた。この福音朗読箇所(ヨハネ20:19-31)の場面では、復活の日とそれから8日目の2回、その様子が描かれていますが、師であるイエス様を亡くした後の弟子たちのことを考えると、「鍵がかけられて閉じられた家」という状態は、弟子たちがおかれた閉塞感を表しているように感じられます。自分たちに救いをもたらしてくださると慕っていた主が、捕らえられて、罪に定められて、十字架の上で残酷に惨めな姿をさらされて殺された。彼に付き従っていた自分たちも、いつ同じような目に遭わされるかわからない、これからどうしたらいいのか、不安と恐れに悩まされながら、暗く狭い家の中で震えている様子が目に浮かぶようです。

けれども、そこにイエス様が現れて、雰囲気が一変します。鍵がかかっていたのに、やってきて、真ん中に立たれて、「あなたがたに平和があるように」と言われました。弟子たちは「ユダヤ人を恐れて」閉じこもっていたのに、「主を見て喜んだ」と言われています。恐れが喜びに変わりました。ユダヤ人たちに捕まる危険性がなくなったわけではありません。けれども、それにもかかわらず、彼らは喜びを得ました。

ご復活は喜びです。私たちは、「ご復活おめでとうございます」と言います。この世界に生きている私たちにとっての、その喜びは、恐れや、不安や、悲しみや悩みがなくなることではなくて、恐れや不安や悲しみや悩みがあっても、私たちは孤独にうち捨てられることはないということです。その中で、立ち上がり、立ち向かう勇気が与えられるということです。

恐れの中で喜びを得た弟子たちは、閉じこもっていた家から外に出て、全世界に行って、福音を告げ知らせました。私たちは、どんな力をいただいているでしょうか。今、どんな力をいただきたいと願うでしょうか。