メッセージ - B年 復活節

ヨハネの言葉遣いには「愛」という言葉の他に、「掟」や「命令」という概念も多く登場します。現代人にとってはその二つの間に解消できない対立があります。愛は自発的なものでなければならず、都合と関係なしに命じられることは矛盾ではないか、と思う人が少なくありません。今の世の人は何も命じられたくない、誰によっても決められないことを理想として目指しています。その代わりに、人を支配したり、人に義務を課したりすることは同じ気持ちで拒否したりしないのは残念です。必ず愛されたいけれど、自分から極みまで愛することをためらってしまいがちです。

興味深いことに、聖書に「神の命令」とか「神のみ旨」とか出てくる際、それは神が勝手に決める、一方的な申し付けではないことに気づきます。しかも、たまたま言う言葉と拘束力を添えて出す命令が別々ではなく、前者も後者も神の言葉はすべて守るに値します。拘束というと少し暗い不自由なイメージがありますが、いったい神様は何を言い、何を望み、何を命じているのでしょうか。復活節の朗読を読み返すと、分かりやすいです。まず、神のみ旨は永遠の命だと書いてあり、また、すべての人が御子を信じ救われ、誰も滅びないことがイエスが神から受けた命令です。使徒たちも、神の望みが私たちの聖化に他ならないなどと述べています。

そして、代表的なのはイエス・キリストの「新しい掟」、すなわち他の掟を廃止するどころか、ある意味ですべてをまとめる掟です。そこで一番分かるのは、立法者として何か外から課している義務ではなく、自分自身も行なっていること、生き様、命を共有しているだけだということです。誰かを愛することは「神が命じたから」義務だとか、「イエスのために」求められているとかではなく、またキリストの愛のような真似でもなく、むしろイエスの愛を受けて、その愛をもって神と人とを愛することであって、信仰者としての当然の結論なのです。

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メッセージ - B年 復活節

復活節も第6主日となって聖霊降臨が近づき、第一朗読では初代教会における聖霊の働きが語られています。聖霊が異邦人の上にも注がれ、民族的な垣根を越えて福音が広がって伝えられていく様が描かれています。

第二朗読と福音朗読では「愛」がテーマとなっています。第二朗読で使徒ヨハネは「互いに愛し合いましょう」と呼びかけますが、その愛はそもそも神によって私たちに示されたものであるとされています。私たちがお互いに愛するという時、それは私たちの人間的な、感情的な好き嫌いではなくて、イエス・キリストの十字架によって示された、神の愛にならうことです。

そのイエスも、今日の福音朗読の箇所で、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」と神の愛に基づいて弟子たちを愛されたことを強調しています。その愛は、損得によらない「自分の命を捨てて愛する」というものです。第二朗読で語られているイエス・キリストの十字架上の死こそが、その究極的な形です。
そしてやはり、使徒ヨハネと同じように、イエスも「互いに愛し合いなさい」と言われています。愛を受けていることを知っているだけでは不十分で、愛を知っているなら、同様に自分も実際に愛するよう招かれているということです。

愛を受けていることをよく理解して感謝し、自分もまたその愛を実践することで、第一朗読のように喜びの福音が世界へと広がりを見せ、「神は人を分け隔てなさらない」というペトロの言葉が人々に受け入れられるのではないでしょうか。

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メッセージ - B年 復活節

今日のテーマは、有名な「ぶどうの木—枝」の喩えです。簡単に聞こえるかもしれませんが、実はとても凝縮されたメッセージを潜めています。まず、キリストにつながっていることは、ただ電池がなくなった時に充電するために一時的に接続するためにつながるのではなく、キリストとの一致の内に生きることを指しています。いや、もっと言えます。キリストから、さながら樹液のように力を受け続け、その力によって生かされるというイメージです。私たちが実際善い行いという「実」をもたらすのは、神からの力があってこそです。さらに、それぞれ違う実を結ぶかもしれませんが、同じ栄養を受けて同じ幹につながっている枝はお互いも一致しなければなりません。花が葉っぱより大事だということはあり得ないのです。とにかく、永遠に生きるためには、時々キリストを訪れたり、しばらくキリストと共にいたりするのではなく、キリストのうちに留まること、またいただいた恵みを外へと表したかどうかということが問われます。

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メッセージ - B年 復活節

今日は、伝統的に「良い羊飼いの主日」と呼ばれる日曜日を祝っています。ご周知のとおり、良い羊飼い、もしくは良い牧者という聖書のイメージが生んだ描き方は、イエスを表す最も古い方法の一つです。実は、十字架に架けられたイエス像よりも古い描き方なのです。

ローマの聖コスタンツァ霊廟のモザイク画

 

このイメージは非常に凝縮された内容を含んでいます。以下の幾つかの点が注目に値します。

• イエスは唯一の羊飼いであり、群れを一つに集めます、つまり教会の調和と一致を指しています——キリストを中心とする教会は皆が勝手に意見を持ち寄る場ではありません。それは、もちろん、ただの中央集権的な独裁主義ではなく、むしろ各部分の役割を尊重しながら安定を目指す考え方です。

• 羊を飼うという行為は、後に使徒たちに委任されるわけだが、治めるとか搾取するとかではなく、命をかけてまで守るということを意味します。指導者になった者、なりたい者は、そこからたくさん見習う必要があります。

• ある描き方によれば、中央にあるキリストは羊飼いではなく、羊たちを率いる同様の雄羊であって、全てにおいて本性も運命を同じくするという意味を込めています。キリストも子羊であって、最も優れた意味で人間性を身にまとっています。

• 人間には色々なことが分からない、不思議に思うことがありますが、キリストには「緑の牧場」に通じる道が分かります——険しい部分もあるかもしれませんが、羊である私たちを豊かな命へと導くことを神から命じられているので、素直に信頼するしかありません。

• キリストはまず自ら同じ道を通りました。教父たちが好んでいた言い方をすれば、キリストは一つでなければなりません——頭は先に天に入りましたが、その体である教会はそれに従い、後で入らなければなりません。キリストが完全になるために私たちを自分の方へと引っ張っています。


ローマの聖クリメンテ大聖堂のモザイク画

 

それと同時に、今日は世界召命祈祷の日にも当たりますので、数の多い神学生・志願生を神に願うのではなく、まず神のみ旨に適った人、良き羊飼いと生を共にする人が今日にも招かれるよう祈りたいと思います。

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メッセージ - B年 復活節

復活節の第3主日の朗読の共通のテーマや点はいくつかあります。

まず、第一朗読においても第二朗読においてもイエス・キリストは「義人」「正しい方」と呼ばれています。また、「命への導き手」とか「弁護者」としての名称も出てきます。普通の凡人の理解と違って、イエスが正しい方であるのは、何か高い道徳的な基準を満たしたとか、非の打ち所なしに規則をことごとく遵守したからではなく、父のみ旨を果たしたから、また人々への(極みまでの)愛によって律法を実現したからなのです。考えてみれば、ユダヤ人によって受け入れられなかったばかりか、彼より強盗の方が優先されたという非常にドラマチックな描写まで為されています。それも人間としての特徴をよく表しているかもしれません、すなわち正しい人は多くの場合、同胞から除け者にされ、恨まれ、排除されがちだということです(ロマ5:7を参照)。

それから、第一朗読と福音朗読では、復活信仰の宣教という文脈の中で、悔い改めと回心への呼びかけが為なされていたということが述べられています。復活で古い世界が終わり、今から楽しい救いの時代が訪れたというイメージとは大違いです。神のみ前で弁護者がいて人間の罪を清めてくださるからと言って、存分に罪を犯すことができると思うのは誤解です。罪・悪・死の力が終止符ではなく、イエスの復活に現れる神の凱旋が最終的な答えだからこそ、人間はもはや罪に支配されないように生きるべき、あるいは、少なくても生きるように努力すべきなのです。イエスの救済の業は参考までのオススメではなく、ある種の規範を潜めています。

最後に、もう一つ大事なのは、神の僕イエスが苦しみを受けることは神の失敗として突然発生したのではなく、実は前から預言者などによって告げられていた、ということです。しかも、福音書の終わりの方で(旧約)聖書の構造まではっきりと書いてあります——律法・預言者の書・詩編——。その聖書全体がメシアの到来やその運命について述べているのだ、神が昔から救いを準備していたのだ、などということが分かります。この聖書を読んで理解するためには、人間の知恵よりも神の霊が私たちの心の目を開かせてくださるということの方がより必要です。

キリスト教信仰はイエスが人に拒まれたにもかかわらず、神によって高められた後、その勝利に誰でも与ることができるということを証言することに尽きます。

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この表現は、先に命へと入られた方を指したり、また、究極の意味では命そのものの創始者であることを暗示しています。