メッセージ - A年 四旬節

私たちにとって、水は生きていくために絶対に必要なものです。命をつなぐためには、食べ物よりも、まず水分が重要です。福音朗読箇所(ヨハネ4:5-42)の中で、サマリア人の女性に対して、イエスはまさに自分が生きた水を与える者であり(4:10)、イエスが与えるその水を飲む人の内で永遠の命に至る水が湧き出る(4:14)と語ります。

このサマリアの女は、正午ごろに井戸に水をくみに来た、と言われています(4:6-7)。水くみは通常、朝一番にその日に必要な分を確保するために行われたと考えられるので、わざわざ遅い時間にこの女性が井戸に来たのには理由があったのでしょう。井戸端会議というくらいで、井戸はその地域の人々が集まる社交の場でもありますから、そこで他の人に会うのがはばかられたとか、人目につきたくなかったれたのではないか、と言われています。

そうした意味で、彼女は心に何らかの傷を負い、「渇いていた」、生きていくための「水」を求めていた状態でした。しかし、イエスと出会い、イエスが語る言葉に耳を傾け、その結果、彼女は避けていたか、少なくとも疎遠であっただろう町の人々との関わりを回復し、彼らを信仰へと導きます。傷つき孤独であった彼女の渇きがいやされた出来事でした。

現代の日本で暮らす私たちにとって、「水」はそこにあってあたりまえのもので、あることさえ忘れてしまいますが、日々、私たちを生かしてくれる「水」の存在に気づき、その恵みに感謝して大切にしたいと思います。

 
メッセージ - A年 四旬節

新型コロナウイルス感染が比較的に落ち着いてきています。日本社会もポストコロナ時代に入っていきます。少しずつ感染対策が緩和され、コロナと共に生きる社会が確立していきます。しかし、コロナは終息したわけではありません。対策は変わっていきますが、一つだけ確実なことが言えます。それは、感染された人に接触しないようにすることが感染を防ぐ1番の方法です。コロナ菌に触れると感染されるからです。

ところで、第1朗読には、神の言葉を歪みながら人間を誘惑する蛇に対して、女は神の指示を繰り返し、「私たちは園の木の果実を食べても良いのです」と答え、神を弁護しようとしています。しかし、よく聞くと、蛇とのやり取りの中で、神のスポククスウーマンになろうとしている女は神が語らなかったことを一言加えたことが分かります。園の中央にある木について「食べてはいけない。死んではいけないから」という神の言葉に、女は「触れてもいけない。死んではいけないから」と付け加えました。これは、口に漏れてしまった彼女の本音かもしれません。そして、ある意味で、女から生まれた人間の心の現実を表すものかもしれません。その言葉で女は蛇(悪魔)につけ込むすきを与えてしまいました。「人間には触れたがる生き物なんだ!」。そして「それは人間の心の中には絶対的な自由を欲しがるすきがあるんだ。神様のように全知全能になりたがる欲があるんだ」と確信しました。その絶対的な自由は人間にとって「いかにも美味しそうで、…賢くなるように唆すものだ。触れたくなるものだ」。それで、蛇の一押しで女はその実を取って、食べてしまいました。

人間は常に無制限の自由を欲しがるのです。しかし、人間には触れてはいけないものがあります。比喩的な意味でも、文字通りの意味でも。無制限の自由は魅力的ですが、それは人間を滅びに導いていくというのが誘惑物語の教訓ではないでしょうか。同じ真実はイエスの誘惑の場面にもみることができます。人間が自分の本能的な欲望、ニーズ、必要性をその場でインスタントに解決され、無制限に満たされることを欲しがるのを悪魔は知っています。それで、空腹しているイエスにその場でパンを、そして権力と繁栄を約束しました。しかし、触れてはいけない実を取って食べた女と違って、イエスは神の言葉を誠実に守り、悪魔の誘惑を退けました。

コロナウイルスの感染ルートはいまだに明確になっていませんが、もしもそれが野生動物からだとすれば、人間は文字通り触れてはいけないことを触れてしまったということです。そうだとすれば、人間は大自然に対して、他の被造物に対して、また人間同士に対する接し方を今一度振り返らなければ、いつか後戻りができない自滅の道を自ら作ってしまうことになります。

「…触れてもいけない。死んではいけないから」という女、人類の母の言葉、そしてサタンの誘惑を退けるイエスの姿をこの四旬節の間に思い出したいものです。

 
メッセージ - A年 年間

今日の福音朗読は、山上の説教の一部であり、律法と義について述べています。「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(マタイ5・20)という教えの続きなのです。また、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」というモーセの律法に続いて、キリストが話された言葉なのです。昔のハンムラビ法典、レビ紀24、申命記19による「目には目を、歯には歯を」という正義を克服し、相手に対する愛と赦しによって、誠の「神の義」を身に纏うようにと誘われます。

山上の説教で話されたキリストの教えは、実行しやすいことではありません。例えば、右の手で右の頰を打つということは、自分が後ろから打たれることになり、非常に屈辱的なものとなります。なお、キリストは「左の頰を向けなさい」というのは「どうぞ、前の方からも打ちなさい」と言う事です。「下着」を求める時にも同じです。律法によりだれも奪いとる権限がないのに(申命記24.12)、コートの「上着」をも取らせるように教えられます。さらに、「一ミリオン行くように強いる」ことはローマ兵士が自分の武具を人に持たせる権限となり、もし頼まれたら「二ミリオン行きなさい」と言われます。

キリストは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という「武器」をご自分の弟子たちに与え、すでにレビ紀の中に聞いた通り「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とまとめておられます。

なお、愛と赦しはキリストご自身がお示しになった道です。キリストに従うわたしたちもこの道を進み、神の義に預かるように呼ばれているのではないでしょうか。

 
メッセージ - C年 年間

福音朗読箇所(マタイ5:17-37)の冒頭のことば、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」は、何を意味しているのでしょうか。福音書全体を見れば、イエスが旧約の律法や預言者を乗り越えようとしたことは明らかです。単に律法や預言者を価値のないものとして捨てるのではなく、その精神をより突き詰めて完成させることによって乗り越えようとしたということだと思います。

この箇所で、「律法や預言者」を端的に表すものとして引用されている掟(「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」、「姦淫するな」、「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」)は、本来、どれも人と人との正しい関係、神と人との正しい関係を成り立たせるためのものだったのでしょう。けれども、それらがおそらく本来の目的とは違った形で強調されることになったので、イエスはそれぞれの掟を自身の言葉に言いかえて、何が本当の「義」であるかを明らかにしようとしたのだと思います。ですからただ「殺すこと」を禁じるのではなく、「兄弟に腹を立てること」「兄弟に『ばか』『愚か者』と言うこと」をしないで「仲直りすること」を命じ、「姦淫しない」のではなく「みだらな思いで他人の妻を見ない」ように、「偽りの誓いを立てない」のではなく、自分のものでもない何かにかけて誓ったりしないように、と言われます。

罪の本質は「規則の条文に違反すること」ではなく、私自身の中にある自己中心性です。そこから目を背けていては、イエスが語られる真の「義」にいたることはできません。

 
メッセージ - A年 年間

今日の福音は山上の垂訓での一部が読まれています。この中でイエスは「あなたがたは地の塩、世の光である」と教えています。この「地の塩」「世の光」という言葉が、私たちの才能と主への献身をもって、社会の手本、規範となるような人となることを示しています。そのためイエスはそれぞれが持っているものを主にささげることによって、その規範を人々に示すように招かれています。だからこそイエスは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と教えられています。

しかし私たちが神に何を捧げようかと考えた時、それぞれ捧げるものとして才能や財産を考えると思います。一方でいつも私が考えるのは、私自身捧げるようなものは持っていないということです。その時に考えなければならないのは、私たちが持っている光はイエスから来ているということです。イエスは自らを捧げ、死からの復活という過越しの神秘を通して私たちに希望を示されましたが、私たち自身もその光を照らさなければなりません。すなわち私たちが自らの光を通して、イエスの示してくださった光を人々に現します。だからこそ私たちは困難のなかにある時も主に従うことを通して、その困難を乗り越える恵み、過越しの神秘に与る希望が与えられていることを示すように招かれています。その意味で私たちは、困難の中にあっても、いつも喜び、その喜びを分かち合わなければなりません。それが私たちにとっての捧げであり、「光を人々の前に輝かせる」ことだと言えます。

私たちが困難の中にあっても、主に自らを捧げ、従うことができる恵みを願いましょう。