メッセージ - B年 年間

今回の「王であるキリスト」の祝日にヨハネ福音のイエスとピラトのやりとりに注目したいと思います。

裁判を受けた時に、ピラトはイエスに「あなたはユダヤ人の王なのか」と問いただしました。その質問に対して、イエスは「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者が私について、あなたにそう言ったのですか」とピラトに返事しました。大変興味深い答えです。質問に対して、堂々と質問で返すイエス。返事に困ったピラトは「私はユダヤ人なのか。...」と必死に逃げ切ろうとしています。誰が誰を裁くのか。裁判官と被告人の立場が逆転しているようにも感じられます。「全ての王の王」の前で、やはりローマ支配者でさえたちうちができません。

しかし、私たちはこれで満足してはなりません。向こう側に立っているピラトに対するイエスの質問は、イエスの側に立っている(であろう)私たちに対する質問でもあります。ピラトを困らせる質問は、イエスを信じる一人一人が答えなければならない質問でもあります。「王であるキリスト」を祝っている私たちに対しても、イエスは「あなたは自分の考えで、そういうのですか。それとも、ほかの者が私について、あなたにそう言ったのですか」と問いているのではないでしょうか。

イエスが求めているのは心からの信仰告白です。単に決まりごとや習慣や言われたことに従う信仰であってはなりません。日々の生活の中で、イエスが自分にとっては「王」であるという個人的な経験が求められるということです。

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メッセージ - B年 年間

(ヨハ18,33b-37)

「イエスはお答えになった。『・・・わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。』」ヨハ18,37

「仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マコ10,45)と言われたイエスは、王と呼ばれるよりも、羊飼い、しかも、自分の羊のために命を与える良い羊飼いと呼ばれることを好まれたようです。典礼暦の最後の主日である「王であるキリスト」の祭日を祝う際に、それを忘れてはいけないと思います。

やはり今日読まれる福音の中でイエスは、自分自身がこの世の王たちと全く異なっているということを言われています。一人ひとりのために幸福を求めて、この幸福へと導くことのできるイエスは、この世の王や他の支配者と違って、人の自由意志を尊重しておられるので、暴力を用いて人に服従を強いるようなことを絶対にされません。イエスの唯一の「武器」というのは、真理について証しをすることなのです。

真理について証しをするために生まれたイエスは、自分の力に頼って自分の努力によって幸せになろうとしている人に、その努力の空しさや危険性を示してくださいます。と同時に、永遠に続く幸福の唯一の源である神のもとに人を引き寄せるために、神の愛の偉大さをご自分の言葉と行いによって現してくださるのです。

自分たちについての真理を示されたために、イエスに対して怒りを覚えて、神の愛に心を開くことのできなかった人たちは、イエスを十字架に付けました。十字架に付けられていたイエスは、全く無力に見えていましたし、その活動も失敗に終わったように見えましたが、不思議にもそのとき、イエスは一番力強く、真理について証しをしていたのです。

十字架に付けられているイエスの姿において、ますます多くの人々が、自分の罪についての真理、また、父である神の愛についての真理を見出すことができますように。そして悔い改めて、イエスのもとに近づくことによって、永遠の命の源である神のもとに近づくことができますように祈りたいと思います。

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お知らせ - お知らせ

使徒的勧告「喜びに喜べ」に基づく「聖性への招き」というテーマに沿って、今年の聖書週間に読みたい聖書箇所を紹介する最後の記事です。

第四章 今日の世界における聖性のしるし
教皇フランシスコは、イエスが求めている生き方に欠かせない、いくつかのしるしや心の姿勢を取り上げます。

辛抱、根気、柔和
「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしり」などの一切の悪意を捨て(エフェソ4:31)、「悪に悪を返さず」、かえって「善をもって悪に勝つ」ようパウロは呼びかけます(ローマ12:17)。自分は他者より優れていないとへりくだり(フィリピ2:3)、慎みをもってキリストに倣って苦しみを耐え忍ぶ(一ペトロ2:20-21)穏やかな強さを持つことが大切ですが、それはキリストによって平安にされた心があってこそのものです(詩編23:4、27:3、ルカ1:79、エフェソ2:14)。

喜び、ユーモアのセンス
忍耐することと、悲しく沈んだ心でいることは違います。苦しみの中でも(一テサロニケ1:6)、いつでも(フィリピ4:4)聖霊によって主のうちに喜ぶのがキリスト者としての生き方です。イエスご自身が喜びにあふれ(ルカ10:21)、また出会った人々に喜びをもたらす方でした(ルカ13:17)。私たちの喜びは、消費主義的・個人主義的な喜びではなく、分かち合い、与え合う喜びです(使徒言行録20:35、二コリント9:7)。

大胆さ、熱意
イエスが何度も繰り返された、「恐れることはない」(マルコ6:50)、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28:20)という言葉が私たちを力づけ、勇気をもって歩み続けるように支えてくれます。使徒たちも、不安や恐れから閉じこもっていたくなる誘惑に打ち勝って、自分自身を開いて踏み出すことができるよう、聖霊の助けを願って祈りました(使徒言行録4:29-31)。

共同体の中で
聖性への道は、一人で歩むものではなく、周りの人々と共に歩む共同の道です。そこには、御父と御子が一つであるような、親密な交わりがあるべきです(ヨハネ17:21)。

たえざる祈り
聖性は、神に対していつも開かれていることの実りです。それは祈りによってあらわされます。神のみ言葉は私たちの歩む道を照らす光です(詩編119:105)。また、聖なる者は、祈りの中で他者への兄弟愛を示します(二マカバイ15:14)。

第五章 闘い、警戒、識別
キリスト者の生活は、悪の誘惑に抗い、福音を告げるためのたえざる戦いです。利己心、高慢、憎しみなどの悪は、いつも私たちに襲いかかろうとしています(一ペトロ5:8)。

灯をともし、目を覚ましているというイメージで、いつも私たちが悪に対して鈍感にならないように、注意しているように、聖書の言葉は呼びかけています(マタイ24:42、マルコ13:35、ルカ12:35、一テサロニケ5:6-8)。「サタンでさえ光の天使を装う」からです(二コリント11:14)。

私たちは、何が聖霊からもたらされるよいものなのか、何がこの世の考えや悪に由来するのかを識別する必要があります(一テサロニケ5:21)。それを知ることは、神と、神がお遣わしになったイエス・キリストを知ることにつながります(ヨハネ17:3)。

(終わり)

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お知らせ - お知らせ

今回も引き続き、今年の聖書週間のテーマ「聖性への招き」が取られた、使徒的勧告「喜びに喜べ」から、黙想の種となるいくつかの聖書箇所を紹介していきます。

第三章 師なるかたに照らされて

聖性とは何かを知るには、イエスのみ言葉と行いに立ち返るのが一番の道です。イエスが山上の説教で語られた真福八端は、キリスト者にとって聖となることがどういうことかを端的に表しています(マタイ5:3-12、ルカ6:20-23)。
「貧しい人々は幸い」富ではないところに私たちは真の幸せを見つけます。また、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」(二コリント8:9)。
「柔和な人々は幸い」憎悪や高慢がはびこる中で、柔和であることはイエスが示された生き方です(マタイ11:29)。罪人に対しても(ガラテヤ6:1)、反抗する者に対しても(二テモテ2:25)、自分の信仰や信念を弁明する時も(一ペトロ3:16)、柔和な心を保つように勧められています。
「悲しむ人々は幸い」苦しむ人から目をそらさず、共に苦しみ、思いやるなら、世からではなく、主から慰めを与えられます。「泣く人とともに泣きなさい」(ローマ12:15)。
「義に飢え渇く人々は幸い」貧しい人や弱者のための正義を強く願い求めることが聖であるということです(イザヤ1:17)。
「あわれみ深い人々は幸い」あわれみとは、与え、助け、仕えることでもありますが、また、ゆるし、理解することでもあります。神があわれみ深くゆるしてくださったように、私たちもあわれみ深くなるよう招かれています(ルカ6:36-38)。そのゆるしは七の七十倍までも、というほど、限りない神のあわれみの心にならうものです(マタイ18:21-33)。
「心の清い人々は幸い」見に見える表面的なことではなく、心の中の真の思いを神は見ておられます(サムエル上16:7)。善い行いも、そこに愛がなければ無益です(一コリント13:3)。ですから、逆に、心の中から出てくるものが人を汚すのです(マタイ15:18)。
「平和を実現する人々は幸い」イエスに遣わされた弟子が、どこかの家に入って、まず言うように命じられていたのは、「この家に平和があるように」という言葉でした(ルカ10:5)。パウロも、神の国のため、キリストに仕え、神に喜ばれるために「平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」(ローマ14:19)と語っています。
「義のために迫害される人々は幸い」快適さを求めるのではなく、たとえ反感や嘲笑を買い、迫害を受けるとしても、福音を生きるようにとイエスは教えます。「自分のいのちを救いたいと思う者は、それを失う」(マタイ16:25)。初代教会の人々も、福音のために喜んで十字架を担いました(使徒言行録5:41、フィリピ1:29、コロサイ1:24、二テモテ1:12、一ペトロ2:40、4:14-16)。

貧しい人、苦しむ人の中におられるキリストに気づき、あわれみ深く接するのも、神の心にかなう聖性を生きることです(マタイ25:31-46)。

(続く)

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お知らせ - お知らせ

日本のカトリック教会は毎年11月の第三日曜日からの一週間を「聖書週間」としています。今年は11月18日~25日で、そのテーマは最近出されたフランシスコ教皇の使徒的勧告「喜びに喜べ 現代世界における聖性」を受けて、「聖性への招き」となっています。カトリック中央協議会からお知らせが出されており(リンクはここ)、毎年作成されているリーフレット「聖書に親しむ」のPDF/Word形式のデータも同ページからダウンロードできます。

使徒的勧告の章立てとそのテーマに従って、以下、関連する聖書箇所を紹介していきます。この聖書週間に、これらの箇所を少しずつでも読んで味わい、「聖性への招き」のテーマを心にとめながら黙想し、祈りに反映させてみてはいかがでしょうか。

 

第一章 聖性への招き

私たちは、私たちの聖なる神、主に倣って聖なる者となるよう招かれています(レビ11:44、ヘブライ12:10、一ペトロ1:16)。それは神に喜ばれるように歩むことです(一テサロニケ4:1-7)。

私たちが聖となるのは、神から与えられた、他の誰のまねでもない自分自身の道においてです(一コリント12:4-11)。その使命は神の国の建設と結びついています(マタイ6:33)。

聖なる神に向かう私たちの歩みは孤独なものではありません。聖書の中には、様々な模範が示されています(ヘブライ11:1-12:3)。そのような模範、信仰の道の同伴者は、自分に近い人々、例えば家族の中にも見出すことができるかもしれません(二テモテ1:5)。

 

第二章 聖性の狡猾な二つの敵

私たちが聖性に至ることができるのは、自分の知識・理性や意思によってではありません。「人の意思や努力ではなく、神のあわれみによるもの」(ローマ9:16)であり、「神がまず私たちを愛してくださった」(一ヨハネ4:19)のです。自分の力に頼る思い上がりは、神に対しても人に対しても、自分自身を閉ざしてしまいます。

私たちは全能の神に従い、その内にあって、その前で謙遜に歩むときに神が望む全き者となることができます(創世記17:1、詩篇27:4、139:23-24)。

神に近づき、主に従うためのすべてのことの中で、最も大切で本質的なものは愛です。「愛がなければ無に等しい」(一コリント13:2)のであり、「愛の実践を伴う信仰」(ガラテヤ5:6)が重要で、愛は律法を全うするものです(ローマ13:8-10、ガラテヤ5:13-14)。

(続く)

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