メッセージ - B年 年間

本質に立ち戻る マルコ12:28b-34

どんな施設、どんな宗教活動や組織も成長と拡大に努めています。成長そのものはよいことですが、抑制がなければ、がんのように致命的になりえます。どの指導者たちも、どの世代も、新しい法律や規則、アイデアや慣行を導入して、永遠に名声を残そうとします。しかし、それらがあまりにも多くなると、何を守ろうとしているのか、どんなことを示そうとしているのかがわかりにくくなってしまいます。

私たちの教会や修道会も、この危険から逃れられません。ですから、今日の福音は、私たちの信仰と実践のまさに本質を力強く思い起こさせてくれます。私たちの教会は、愛へのゆるぎない献身を通して、人々の生を神に導くという、ただそれだけのために存在しています。また、相互の愛という原則に従って、すべての信じる人々の日々の行いを導きます。すべての規則、法律、慣行はこの目的のためでなければならず、そうでなければ不要なのです。

(神言会文書 Encountering the Transforming Word 2018 Oct/Nov より翻訳)

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メッセージ - B年 年間

イエスが律法学者の問いかけに答えてのべられた重要な掟とは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神である主を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」でした。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」とか「自分のように」という修飾語句は、「愛する」ことを具体的にしています。ただ「愛しなさい」と言うだけではなく、どのように愛するかを強調することによって、掟が掟のままで終わらないように、どのように一歩を踏み出すべきか、道筋を示してくれています。

イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て「あなたは神の国から遠くない」と言われました。答えた内容は良かった、よく理解していたけれども、それだけでは神の国に入ることにはならない、ということです。遠くはないが、もっと近づいていかなければならない。その近づいていく歩みが、実際に「愛すること」です。

イエスは十字架への道を歩んでいきました。それは、自分を遣わされた神のみ旨を果たすことによって神を愛することであり、自分の命をかけても人々を愛することでした。こうして自分の命をささげて神と人とに仕えるイエスの姿は、第二朗読のヘブライ人への手紙の中で、特別な「大祭司」として語られています。

愛を実行に移すには、勇気が必要です。人の目を気にしたり、反対があったり、何か犠牲があったりしても、それを乗り越えなければ、愛の掟を実現させることはできません。その力を与えてくださるのも、また神であり、隣人の支えであることを思い起こしたいと思います。
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メッセージ - B年 年間

バルティマイは、イエスが来られたと聞いて叫びました。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」。道端で物乞いをしていた盲人だった彼が、まず最初に願ったのは、「目が見えるようにしてください」とか「私の目を開いてください」、「私をいやしてください」ということではなくて、「私を憐れんでください」でした。しかも、それは「叫び」としてあらわされました。イエスが近くまで来ているとは聞いたけれども、目が見えない彼には、どこを歩いているか、どこに立っているかまではわからない。ただ、この時を逃すことはできないと、必死になって、どこにいるか見えないけれども近くに入るはずのイエスに何とか聞いてほしいと、顔を上げて自分の周りを見回すように、そこら中に叫びかけました。

「私を憐れんでください」は、「私の目をいやして、見えるようにしてください」というよりも、もっと心の深いところから絞り出された、叫びです。それは、「私を見捨てないでください」「私のことを見てください」「私に目を留めてください」「私を否定しないでください」「まるで私が存在しないかのようにふるまわないでください」というような、単なる視力の問題を超えた、自分の全存在にかかわる悲痛な叫びでした。

周りにいた人々は、このバルティマイをしかりつけて黙らせ、彼の叫びをなかったことにしようとしました。それはつまり、彼がそこにいなかったことにしようとすることでした。それに対して、イエスは彼の叫び声を聞き、足を止め、自分の近くに呼びよせました。バルティマイの叫びに耳を傾け、目を留め、彼自身を、その痛みも望みも、すべて受け入れて憐れみ、いやしました。

盲人はティマイの子で名前はバルティマイであった、と記されていますけれども、福音書がいやしの奇跡を受けた人の名前にまで言及するのは、特別なことです。イエスにとって、この盲人は、群衆の中の名もない誰か、いてもいなくてもかまわない、誰でも代わりになりうる人ではありませんでした。バルティマイという名前を持った、一人の人として扱われました。

私たちは、叫びをあげている人々を必ずしも救うことはできないかもしれません。何もできないことのほうが多いかもしれません。しかし、何もできないとしても、人々の叫びに耳をふさぎ目を背けるのではなく、憐みの心を持って近づいていくように、一緒にいて共に喜び、共に苦しむように、イエスは私たちを招いています。

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見ることによってではなく、信じることによって マルコ10:46-52

身体的に盲目が即座にいやされたということよりも、弟子たちの霊的な目が閉ざされていて、主の真のアイデンティティと使命が見えなくなっていることの方が深刻です。私たちは、身体的な目よりも心と精神が明るく照らされていない限り、よく見えずに主に従うことができません。人生の苦難と試練、落胆と反対のさなかで、内的に主を必要とすることを敏感に感じることによってのみ、私たちは多くの内的・外的な障害を乗り越えて主に近づくことができます。その時、内的な喜びが見える形で、外側に現れるのです。

様々な人々、共同体、文化、言語、宗教について、私の見方は、先入観で盲目的になっていないでしょうか。人間的な弱さ、身体的な欠点、精神的な問題、文化的な特徴に基づいて、人々を裁いていないでしょうか。使命に生きる者としての自分の人生に必要なものは、しばしば目には見えないものであり、逆に見えているものは本質的ではない、ということがあることに気づくことができますように。主よ、見ることによってではなく、信仰によってあなたに従うことができますように。

(神言会文書 Encountering the Transforming Word 2018 Oct/Nov より翻訳)

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メッセージ - B年 年間

今日の朗読のメッセージは「奉仕」です。国の大臣を英語ではministerと言うように、本来なら共通善のために皆に仕える者だという意味です。イエスを師とする人は誰でも、ある程度イエスと同じ運命にあずかり、同じ目に遭わなければなりません。先生とかメシアとか神の子だったとしても、その基本的な姿勢は世俗の論理を覆しつつ人々に奉仕することがその使命でした。

イエス自身はもう自分に当たられた使命を果たし、人間とあらゆる点において似た者になりました。今度は私たちの当番です。つまり、イエスに似た者になっていかなければなりません。「弱さ」や「試されること」(罪を犯すことではないが)は、何も頑張らなくても自然にそれにあずかっていますが、何らかの形で生贄として自分の命を捧げることにおいては決意と努力が必要です。そこで初めて師キリストと本当の意味で類似するようになります。

もう一つのことが伺えます。特別な選びによってイエスと親しくなった人々、すなわち弟子は、ある意味で偉いとも言え、尊敬されるに値します。聖書的な言い方をするならば、ある人は主の左と右に座らせてもらえます。ただし、それは権利や尊厳が多ければ多いほど、責任や義務も強くなるということを意味しています。なので、この朗読は位階制を否定しているのではなく、地位も必要ではあるが地位とともに負担も大きくなっていくということを強調しているに他なりません。尊厳や神様に愛されることにおいては皆同じであることに変わりありません。

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