メッセージ - A年 年間

今日の福音朗読は、山上の説教の一部であり、律法と義について述べています。「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(マタイ5・20)という教えの続きなのです。また、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」というモーセの律法に続いて、キリストが話された言葉なのです。昔のハンムラビ法典、レビ紀24、申命記19による「目には目を、歯には歯を」という正義を克服し、相手に対する愛と赦しによって、誠の「神の義」を身に纏うようにと誘われます。

山上の説教で話されたキリストの教えは、実行しやすいことではありません。例えば、右の手で右の頰を打つということは、自分が後ろから打たれることになり、非常に屈辱的なものとなります。なお、キリストは「左の頰を向けなさい」というのは「どうぞ、前の方からも打ちなさい」と言う事です。「下着」を求める時にも同じです。律法によりだれも奪いとる権限がないのに(申命記24.12)、コートの「上着」をも取らせるように教えられます。さらに、「一ミリオン行くように強いる」ことはローマ兵士が自分の武具を人に持たせる権限となり、もし頼まれたら「二ミリオン行きなさい」と言われます。

キリストは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という「武器」をご自分の弟子たちに与え、すでにレビ紀の中に聞いた通り「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とまとめておられます。

なお、愛と赦しはキリストご自身がお示しになった道です。キリストに従うわたしたちもこの道を進み、神の義に預かるように呼ばれているのではないでしょうか。

 
メッセージ - C年 年間

福音朗読箇所(マタイ5:17-37)の冒頭のことば、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」は、何を意味しているのでしょうか。福音書全体を見れば、イエスが旧約の律法や預言者を乗り越えようとしたことは明らかです。単に律法や預言者を価値のないものとして捨てるのではなく、その精神をより突き詰めて完成させることによって乗り越えようとしたということだと思います。

この箇所で、「律法や預言者」を端的に表すものとして引用されている掟(「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」、「姦淫するな」、「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」)は、本来、どれも人と人との正しい関係、神と人との正しい関係を成り立たせるためのものだったのでしょう。けれども、それらがおそらく本来の目的とは違った形で強調されることになったので、イエスはそれぞれの掟を自身の言葉に言いかえて、何が本当の「義」であるかを明らかにしようとしたのだと思います。ですからただ「殺すこと」を禁じるのではなく、「兄弟に腹を立てること」「兄弟に『ばか』『愚か者』と言うこと」をしないで「仲直りすること」を命じ、「姦淫しない」のではなく「みだらな思いで他人の妻を見ない」ように、「偽りの誓いを立てない」のではなく、自分のものでもない何かにかけて誓ったりしないように、と言われます。

罪の本質は「規則の条文に違反すること」ではなく、私自身の中にある自己中心性です。そこから目を背けていては、イエスが語られる真の「義」にいたることはできません。

 
メッセージ - A年 年間

今日の福音は山上の垂訓での一部が読まれています。この中でイエスは「あなたがたは地の塩、世の光である」と教えています。この「地の塩」「世の光」という言葉が、私たちの才能と主への献身をもって、社会の手本、規範となるような人となることを示しています。そのためイエスはそれぞれが持っているものを主にささげることによって、その規範を人々に示すように招かれています。だからこそイエスは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と教えられています。

しかし私たちが神に何を捧げようかと考えた時、それぞれ捧げるものとして才能や財産を考えると思います。一方でいつも私が考えるのは、私自身捧げるようなものは持っていないということです。その時に考えなければならないのは、私たちが持っている光はイエスから来ているということです。イエスは自らを捧げ、死からの復活という過越しの神秘を通して私たちに希望を示されましたが、私たち自身もその光を照らさなければなりません。すなわち私たちが自らの光を通して、イエスの示してくださった光を人々に現します。だからこそ私たちは困難のなかにある時も主に従うことを通して、その困難を乗り越える恵み、過越しの神秘に与る希望が与えられていることを示すように招かれています。その意味で私たちは、困難の中にあっても、いつも喜び、その喜びを分かち合わなければなりません。それが私たちにとっての捧げであり、「光を人々の前に輝かせる」ことだと言えます。

私たちが困難の中にあっても、主に自らを捧げ、従うことができる恵みを願いましょう。

 
メッセージ - A年 年間

マタイ福音書では、大人になったイエスは、まず洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒れ野で誘惑の試練を受けた後、ガリラヤで宣教を始めます。それがこの主日の福音朗読箇所(マタイ4:12-23)のお話です。

イエスは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って福音を宣べ伝え始めたとされますが、この宣教活動の始まりにおいてしたことは「弟子集め」でした。最初に弟子になったのは、ガリラヤ湖で漁師をしていた2組の兄弟、シモン・ペトロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネでした。その後も、たとえば徴税人のマタイ(9:9)など、様々な人々が弟子として加わり、そのうちの12人が特別な使命と共に使徒とされました(10:1-4)。

イエスの宣教活動は、個人的な活動ではありませんでした。弟子たちを仲間として、いつも共に行動し、その実りを分かち合いました。そしてイエスの死と復活の後、福音を宣べ伝えるという使命は、イエスから弟子たちへ、更に次の世代へと引き継がれていきました。

イエスの宣教が、イザヤの預言のことば(イザヤ9:1)になぞらえて語られます。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。弟子たちはその光をもたらす使命を受け継ぎました。現代のイエスの弟子になろうとする人も、この使命を分かち合うことに呼ばれています。

 
メッセージ - A年 年間

福音朗読箇所(ヨハネ1:29-34)では、イエスの公生活の始まりに先立ち、洗礼者ヨハネがイエスについてあかしする場面が読まれます。ヨハネに対して「メシアではないのか」「エリヤかあの預言者ではないのか」と言う人々がいましたが、ヨハネは「自分の後から来られる方こそ、その人物だ」と語り、イエスが自分の方へ来られるのを見て、「この方こそ神の子だ」と示しました。

「わたしはこの方を知らなかった」と繰り返しながらもヨハネがこのあかしをしたのは、霊が降ってきてイエスにとどまる、という「しるし」を見たからでした。

この世界で私たちに与えられるのも、いわば「しるし」だけです。神の子の姿を目にすることも、神の声を聞くこともありません。私たちは、聖書のみ言葉を通して、目の前で起こる出来事を通して、人々の愛ある行いを通して、そこに神の業を、神の御旨を「感じ取る」ことしかできません。

私たちは、今、何を見て、どこに主の存在を感じるでしょうか。