メッセージ - A年 待降節

私たちは待降節第2主日を迎えます。待降節の間に私たちは二つの重要な準備を行います。一つは、2千年前のイエスの誕生、神が実際に歴史の中で人間として生まれたことを記念し、それを今ここで追体験できるための準備を行います。アドベントのロウソクを灯したり、馬小屋を作ったり、クリスマスカードを送ったり、黙想やノヴェナなどを行なったりして、目に見える準備をしながらクリスマスを迎える心の準備を整えていきます。

もう一つの準備は、最終的なイエスの来臨、聖書に出てくる世の終わりの時のイエスの到来、第二の到来を準備します。これは、私たち一人ひとりにとっては、自分の人生の終わりを指していると考えて良いのではないかと思います。この二つの準備はどちらも必要です。二つの準備はつながっているからです。目の前のクリスマスの準備は、人生の終わりに訪れる主を迎える準備につながっていきます。

では、主の来臨のためにどのような準備が必要なのか。またどのように準備しなければならないのか、今日のマタイ福音書は、洗礼者ヨハネは声を通してそのヒントを与えています。洗礼者ヨハネは声を張り上げて、「悔い改めよ。天の国は近づいた」。そして「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と。洗礼者ヨハネは何を私たちに求めているのでしょうか。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」というのは、つまり、大胆な決断と行動をとることが求められるということではないかと思います。クリスマスは神が私たちを救うために、私たちに救いの道を示すために人間となったという神の大胆な行動であるならば、それに対して私たちからも大胆な行動で答えることが求められるということです。中途半端な気持ちではなく、徹底したものが求められるということです。そして、洗礼者ヨハネの言葉の後半の部分にあるように、具体的な行動が求められています。もしも進むべき道から外れているのであれば、今ここで正しい方向へと直す。人への無関心な心の谷を具体的な愛の実践で埋める。他人よりも自分が優れていると傲慢になってしまった心を具体的な奉仕の精神で低くする。うまくいかない人間関係や様々な悩みごとで凸凹になってしまった心を日々の祈りと犠牲を通して安定させることなど、徹底した行動、徹底した改心が求められるのです。

クリスマスを迎える度に、洗礼者ヨハネは声を張り上げて、改心を呼びかけています。神の想いに応える私たちの大胆な答えを呼びかけています。目の前のクリスマスの準備は、人生の終わりに訪れる主を迎える準備、一人一人にとっての最後のクリスマスにつながっていきます。目の前のクリスマスの準備ができない人は、人生の終わりに訪れる主を迎える準備も出来ないということが言えるのではないかと思います。今年のクリスマスに向けて、神の想いへの応えとして私がとるべき大胆な行動、私の具体的な決心は何でしょうか。

 
メッセージ - A年 待降節

 

今日は待降節第1主日であり、典礼暦年が始まります。待降節の典礼にはイエス・キリストの到来、また再臨の神秘を強く感じ、神の救いを受けるための心の準備をするように呼ばれています。待降節は四つの主日からなり、それぞれに心の準備のためのテーマが分けられています。第一主日は「目覚めること」、第二主日は「悔い改め」、第三主日は「喜び」、第四の主日は「光」というテーマとなっています。待降節に聞く聖書の言葉は、夜空の星のように私たちを導くので、この四つのことを考え、心に受け止めるように祈りましょう。

さて、今日の第一朗読の「イザヤ書」は主の神殿の山が高くそびえ、多くの民が来て、ヤコブの神の家を訪れると教えています。この民はイスラエルと他の国々の人であり、主の導きに従うことになり、主の光の中に歩むことによってメシアのこられた時が示されることになります。この時については第二朗読「使徒パウロのローマ教会への手紙」の中に書かれています。「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから目覚めるべき時が既に来ています。」また、「闇の行いを脱ぎ捨てて、光の武具を身につけましょう。」とパウロが教えます。

さらに、「マタイによる福音」の中にもイエスは「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなた方にはわからないからである。」という心構えに呼びかけ、ご自分が来られる日を予告します。

目を覚ますことは信仰の第一ステップです。それは、警戒することだけではなく、神の国が近ついたと気が付くことであり、神の御言葉の招きに従う熱意です。

主の再臨は思いがけない日となることについて書かれているので、目を覚ましましょう!

自分が今日から「目覚めなければ」、神様の訪れも、自分自身に与えられた神様の恵みもすべて無駄にする恐れがあるからです。神様はどのように私たちに話しかけているのでしょうか。神様はご自分の教会と御言葉を通して私たちに話し、また時代のしるし、心の響を通して私たちに話してくださいます。「主は私たちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。」とすべての時代の人々とともに呼びかけ、キリストの救いに与ることができるように願いましょう!

 
お知らせ - お知らせ

日本のカトリック教会は、毎年11月の第三日曜日からの一週間を「聖書週間」としています。今年は11月20日~27日で、フランシスコ教皇の回勅『兄弟の皆さん』より「あなたの隣人とはだれか(ルカ10・25-37)」をテーマとし、「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10・37)を聖書のことばとしています。カトリック中央協議会からお知らせが出されており(リンクはここ)、毎年発行されている小冊子『聖書に親しむ』のPDF版も同ページからダウンロードできます。

この聖書週間に合わせて、私たちも小冊子を作成しましたので、どうぞご覧下さい(ここをクリックすると開きます)

 
メッセージ - C年 年間

カトリック教会の典礼暦年間の最後の主日は、「王であるキリスト」を祝います。福音朗読の箇所(ルカ23:35-43)は、イエスが十字架につけられた場面です。そこでは、十字架を囲む兵士たちがイエスのことを「ユダヤ人の王」と呼んでいますけれども、それはもちろん皮肉です。十字架の上で何もできない、自分を救うこともできない、と言って侮辱したわけです。また、一緒に十字架に掛けられていた犯罪人の一人も同じように「お前がメシアなら、自分自身と我々を救ってみろ」とののしりました。彼らにとっての「王」とは、第一朗読(サムエル下5:1-3)に描かれているダビデのように、この世界で強い武力を持ち、戦争の時に人々の前に立って敵と戦ってくれる人物のこと、当時の状況なら、ローマの支配から独立を勝ち取ってくれる民族の救世主でした。それに対して、十字架につけられていたもう一人の犯罪人は、「あなたの御国においでになるときには」、つまり「あなたが王としてご自分の国に入るときには、わたしのことを思い出してください」と言いました。

両者ともイエスのことを「王」だと言いながら、王がどういう者かということについては、別々の考えを抱いていました。兵士たちは、力強く戦う王・敵を力で滅ぼす王のイメージを持ち、イエスのことを皮肉で「王」と呼びながら、十字架から降りてくる力がない、弱々しくて自分自身も他の人も救えない、と侮辱しました。逆に二人目の犯罪人は、イエスは何も悪いことをしていないのに、その必要もないのに、すべての人の救いのために、自分から十字架に上がり、命を献げようとしている。そこに王としての姿を見出しました。

私たちにとっての王は、戦いの中で敵を攻撃して滅ぼす王でしょうか。それとも、人々を愛し、そのためには身をささげるほどの苦しみを受け入れて、人々を救う王でしょうか。私たちにとって、十字架の上のイエスは、弱い、力のない、惨めな人でしょうか。それとも私たちのために命をかけるほど、強い愛を持った方でしょうか。

 
メッセージ - C年 年間

主の降誕の準備となる待降節が近づき、典礼暦が終わりに近づくと、ミサの朗読でも終末に関する箇所が読まれるようになります。一年の終わりにあたって、私たち自身の終わり、世の終わりについて考えるためです。

世の終わりというものは、私たちが生きている内には来なさそうですが、この主日の福音朗読(ルカ21:5-19)に描かれている戦争、暴動、地震、飢饉、疫病などという「恐ろしい現象」(21:11)は、今もこの世界で絶え間なく起こっています。被害が及ばないところにいても、そんなニュースを聞く度に心が痛みますが、実際にその渦中にある当事者の方々にとっては、本当に世の終わりのように感じられる悲劇だろうと思います。日本のような、命の危険が少ないところにいても、近しい人による裏切りや人から憎まれる(21:16-17)ということは体験することがあるだろうと思います。

「終末」「世の終わり」は私たちが生きている間には来ないかもしれませんが、残念ながらそれでも様々な痛みや苦しみは絶えることがありません。抱えきれず倒れてしまうほどのつらさもあるでしょう。この聖書箇所のように、イエスご自身も苦しみが存在することを否定していません。けれども、それがすべてではない、それで終わりではない、と語られます。この世界には憎しみも苦しみもあるけれども、同時に愛もあります。弱った人を力づける声があり、傷ついた人に差しのべる手があり、不安なときにそっと寄り添ってくれる存在があります。「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(21:18)という約束は、希望があることを見失いがちな私たちの目を上へと向けさせる言葉です。