メッセージ - B年 待降節

「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い主の働きの実りは御前を進む。」イザ 40:10

イスラエル人たちは、神に背いて罪を犯すことによって、神から離れて生きる悲しみと苦しみをよく知っていました。そして、神のもとへ導く道を教えられても、自分の力だけでは立ち戻ることができないということをも知っていました。彼らの状態は絶望的であるように見えましたが、預言者イザヤを通して神は彼らに大きな希望を与えてくださいました。それは、神ご自身が彼らのところに来られ、彼らが罪を犯すことによって作った距離をなくしてくださるという約束がもたらす希望でした。イスラエル人たちがやるべきことはただ一つでした。それは、心を準備して、彼らのところに来られる神を受け入れることであったのです。

実際に、神はイエス・キリストにおいてイスラエル人のところに来られ、この約束を成就しましたが、彼らは心の準備が出来ず、待ち望んでいた救い主を受け入れる代わりに、十字架につけて殺してしまったのです。幸いに、人間が神に逆らっても、神の救いの計画を滅ぼすことが出来ませんでした。神はキリストの死によって、罪の結果である死を滅ぼし、イスラエルの人々だけではなく、すべての人に永遠の命の可能性を与えてくださったのです。

この永遠の命とは、イエスと愛の絆によって結ばれて、三位一体の神との愛の交わりに入るということなのです。イエス・キリストはこの可能性を実現するために一人ひとりのところに来られ、ご自分の交わりへと招いてくださいます。この招きに応えて、イエスを受け入れるために、私たちは常に心の準備をしなければなりません。この準備とは、自分の生き方を正すこと、つまり、キリストの教えに逆らう振る舞いをやめるように努力しながら、キリスト自身の生き方を身に付けるように努めるということなのです。

 
釈義 - B年 待降節

 

第一朗読(イザヤの預言40・1-5,9-11)では、バビロン捕囚にあるイスラエルの民に、慰めよ、慰めよ、と捕囚からの解放がよい知らせ(エウアンゲリオン)として呼びかけられ、語りかけられる。何故それが良い知らせになるのか、それは神に従うことを妨げるすべての囚われからの解放だからである。そのとき、主なる神が力を帯びて来られ、み腕をもって統治される。その主なる神が治められる、神の国では、使徒ペトロが、第二朗読(2ペトロ3・8-14)で述べているように、一日は千年のようで、千年は一日のようである。その完成と実現の日はいつ来るかは神以外の誰も分からない。しかし、その日は神の約束に従って必ず来るのであり、わたしたちは、神に信頼して、それを待ち望む。福音書(マルコ1・1-8)においては、主イエスがその良い知らせ(エウアンゲリオン)を自らの生涯の活動(教えと癒し)と受難、十字架上の死、復活等を通して告げられ始める。イエスを駆り立て、動かしたその霊と父なる神の霊が、信ずるわたしたちをも生かし、働きかけてくださる。

 
メッセージ - B年 待降節

テーマ:「目を覚ましていなさい」

そのとき、イエスは言われた。「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マコ13,33)

「待降節」は、神から「降りて」来られる救い主を「待ち」望む時です。旧約時代の人々は、メシアの到来を待ち望んでいました。教会は、イエス様が来るべき救い主であることを信じ、今、キリストの再臨を待ち望んでいます。イエス様は、御自分の再臨を今日の福音をもって例えています。すなわち、それは僕達が旅に出た主人を待つことに比べています。主人が帰って来る時刻が分からないものだから、イエス様は僕達に「目を覚まして、」どんな時にでも誠実に任務を果たすように呼びかけています。

旧約時代の人々は、預言者達が預言した救い主の到来を何千年にわたって待ち望んだにもかかわらず、キリストの誕生のために何も準備して来られませんでした。結局、救い主は馬小屋で生れ、ユダヤ人の王ヘロデが彼を殺そうとし、ユダヤ人の指導者達はイエスを迫害し、最終的にキリストを捕えて十字架に付けてしまったのです。

現代、私達は2千年前のキリストの到来を御降誕祭として盛大に祝います。クリスマスの時期は典礼歴で決まっていますから、私達は行事を計画してクリスマスの良い準備ができます。ところで、キリストの再臨は、思いがけない時に来ます。今がその時になったら、私達はキリストをどう迎えるでしょうか。旧約時代の人々のように冷たく迎えないでしょうか。もし、あなたの信仰は祭りごとのものであるならば、再臨が思いがけない時になり、もし、あなたが愛の奉仕の任務を日常生活の中で果たさないならば、キリストとの再会は悲しいものになります。

待降節を迎えた私達は、良く準備して、家庭、教会や社会で大いなる喜びをもってクリスマスを迎えようとします。もし、私達が神と人への奉仕をもって愛の実践の飾りを自分の心につけるならば、キリストの再臨は思いがけない時にならず、クリスマスに優る救いとキリストとの一致の喜びは、すべてを極めることでしょう。 私達は秘跡と御降誕祭の典礼の中で、キリストの再臨の喜びを、天国の先取りとして信仰の内に喜び祝うことができます。「目を覚まして」いれば、今日もキリストに出会うことでしょう。

 
釈義 - B年 待降節

第一朗読:イザ 63,16-17.19;64,3-7

第二朗読:一コリント1,3-9

福音朗読:マルコ13,33-37

第一朗読の言葉はバビロニア捕囚後の時代が背景となっている(紀元前6世紀)。バビロニアへ連れて行かれたユダヤ人たちは壊されたエルサレムとエル サレム神殿に戻った。そしてその理由と意味を考え始めた。第三イザヤと呼ばれる著者にとってその国民的な惨事の理由はユダヤ人たちの罪と神に従わない行い である。起こった惨事は神から貰った罰であると著者はおもっていた。けれども、ユダヤの国民は神の者たちである。だから、神は父のようにユダヤ人を教育す る。自分の子供を守りながら必要な時に罰も与える。

この手紙はパウロが困難な時に書かれた。コリント教会の信者がお互いに議論し、分裂的な道を歩いていた。この手紙の目的はコリント教会の一致を守る ことであった。挨拶の部分の中でパウロは二つのことを強調している。まず、かみは我々の父だということである。この父からすべての恵みをいただいた。次 に、イエスは我々の主だということである。彼の業おかげで我々は救われた人々となった。

イエスの来られる日についてすべての共観福音者は同じ考えを持っている。いつその日が来るかその日が来るまでどのように信者らしい生活をするかという質問に答えられるように考えておいたほうがいいだろう。

 
主日の朗読聖書 - B年 待降節

 

西脇師, Ziebura師,  Kucicki師

テーマ :神は私たちの父である

 

第一朗読:イザ 63,16-17.19;64,3-7

まことに、あなたは私たちの父です。 (Isa 63:16 JAS)

第二朗読:一コリント1,3-9

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。 (1Co 1:3 JAS)

福音朗読:マルコ13,33-37

わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」 (Mar 13:37 JAS)