釈義 - C年 復活節

第一朗読:使徒言行録14,21b-27

第一朗読の言葉はパウロの第一宣教旅行と関連する。アンテオケから始まった(紀元後47年頃)第一宣教旅行(使徒13、1-14、28)の時にイエスの福音書を外国に住んでいるユダヤ人だけではなく異邦人にも述べ伝えた。ある場合(使徒13,13、43-52)は成功であって、ある場合(使徒14、1-7;19-21)は失敗であった。しかし、この宣教旅行の間に、シリア、キプロスや現在の南トルコで原初キリスト教が設立された。信者になった人々に対してパウロは二つのことをした:「弟子たちの心を強め」ることと「彼らのために教会ごとに長老たちを選 」ぶことである。それは、生まれたばかりの原初キリスト教が信仰の道を歩くことが出来るようにするために、必要なことであった。

第二朗読:黙示録21,1-5a

第二朗読の言葉は天国に関するものである。エルサレムはユダヤ教にとって最も聖なる所である。エルサレムは原初キリスト教が生まれたところでもある。このエルサレムは終わりのある場所である(黙示録21、1)。しかし、新エルサレム(天国)は神と人間がともに永遠に残る場所である(21、3-4)。それは神からいただいた最後の恵みである(21、2)。

福音朗読:ヨハネ13,31-33a.34-35

アベルとカインの時代から、人間の罪の泉は変わらない。それは利己心である。人は自分の事以上には誰も愛していない。イエスは神を愛しているので神の御旨に最後まで従った。神の御旨とは、人間を救うためのイエスの受難と復活であった。そのおかげで「神は人の子によって栄光をお受けになりました」 (ヨハ13、31)。イエスの「互いに愛し合いなさい」という命令によって詳しい説明が付け加えられた。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。イエスのような愛を与えることができる人(自分の事より隣人のことを愛することである)にのみ神の御旨を行うことが出来る。

 
メッセージ - C年 復活節

 

「あなたがたに新しい掟を与える。

わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい。」(ヨハ13:34)

本日の福音は最後の晩餐の広間を紹介します。ユダがキリストを裏切るために出て行く時刻を強調します。私たちの誰一人も、人に裏切られた経験があると思います。その時にその心の中で何が起こったかは、人によって心の持ち方が大きく違っていると思いますが、裏切る配偶者を無理に引きとめたり、友の悪口や批判をしたりすること、心が否定的、拒絶的でいっぱいになることはマレではありません。その時に私たちの心の中で愛が消えて行きます。しかし、ユダが裏切ろうとしたその時、イエス様は、無理に引きとめることも、呪うこともなく、弟子たちに互いに愛し合うことを命じます。

愛の掟とは、キリストが初めて与えたものではありません。モーセ律法の中で、すべてを尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛することは書かれています。では、なぜキリストが互いに愛することを新しい掟としてお与えになったかは、私たちに問いかけるものがあると思います。

使徒として選ばれたユダの裏切りの罪がキリストの心に深い傷を与えたにもかかわらず、イエス様は、御自身が愛しているようにお互いを愛することを教えました。その後に、キリストは自自身を十字架につけられた人のために赦しを祈り、死に至るまで私たちを愛し抜かれたことをお示しになりました。

いつの時代にも全ての人々は愛を求めています。しかし、人に裏切られた時に我々が愛を失い、愛の掟は古いことばだけになることが多いのです。最後の晩餐の時に、キリストは弟子たちに、又彼らを通して私たちに以下のことを求めていると思います。

1.愛を望んでいる私たちは自己中心的になる傾向がありますから、自分たちが考え

る愛ではなく、キリストが十字架上で実現した無償で無条件の愛を持って互いに

愛し合うこと。

2.新しい掟をもまもること、すなわち、人の不完全さのために私たちが心の中で愛

を失うことがないように、キリストと一致の内に各瞬間心の中でキリストの愛を

刷新し、その愛が足りないところに愛をもたらすこと。

 
主日の朗読聖書 - C年 復活節

ヨハネ10・27-30


〔そのとき、イエスは言われた。〕27「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 29わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。30わたしと父とは一つである。」

 
主日の朗読聖書 - C年 復活節

テーマ :あなたはわたしを愛しますか

第一朗読:使徒言行録5、27b-32. 40b-41

ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。 (Act 5、29)

第二朗読:黙示録5、11-14

「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」 (Rev 5、13)

福音朗読:ヨハネ21,1-19

「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」 (Joh 21、16)

 
メッセージ - C年 復活節

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」ヨハ 10:27

イエスが私たちを父のもとに導いてくださいますが、私たちを導こうとして、私たちに呼び掛けるのはイエスだけではなく、他に多くの人がいます。ですから、私たちは実際にイエスに従うために、先ずイエスの声を聞き分ける必要があるのです。いろいろな雑音で満たされている現在の世界に生きて、イエスの声を聞き分けるために、やはり、神の言葉である聖書を読むことによって、イエスの声に耳を慣らす必要があると思います。

けれども、イエスの声を聞き分けることが大事であっても、実際にイエスに従うために、それだけでは十分ではありません。イエスに従うために何よりも必要なのは、父である神のもとに近づきたいという望みと、イエスは本当に私たちを父である神のもとに導くことや、私たちに必要な力を与え、あらゆる危険から守ることができると信じて、イエスに信頼することなのです。

確かに以上の望み、また、信仰と信頼は、恵みですので、先ずそれを願い求める必要がありますが、この恵みを受け入れるために、イエスと二人切りの静かな時間を過ごすことや、諸秘跡においてイエスと出会うこと、それから、イエスの体である教会の生活に参加すること、さらに今の自分の力が許す限りイエスの教えを実行することが非常に重要なことになるのです。

イエスが復活されたと信じるのは、イエスが死者の中から立ち上がったことを認めるだけではなく、現在にも生きていおられるイエスと共に歩み、イエスの導きに従うことなのです。私たちは、イエスが死に打ち勝ったと認めることによってではなく、実際にイエスの導きに従うことによって父である神のもとに近づき、イエスの勝利と復活の栄光にあずかることができるのです。