釈義 - C年 四旬節

第一朗読:イザヤ50.4-7

第一朗読の言葉は預言者第二イザヤの人生と関係がある。預言者は神のみ旨に従ったため、

人から迫害された。しかし、預言者は神の僕として、苦しい時や困難な時に神を信頼する。

第二朗読:フィィリピ2,6-11

第二朗読の言葉にはさまざまな重要なキリスト論的教えがある。まず、イエスが永遠の神であるということ(6行)。次に、イエスが神として人間になったということ(7行)。人間として、死ぬまで自身を低くしたということ(8行)。神がイエスを高く引き上げたということ(9行)。また、イエスが主になったということ(10-11行)。この部分は「ケノシス賛歌」と呼ばれている箇所である。

福音朗読:ルカ23,1-49

ルカによれば、ピラトやヘロデはイエスが無実(むじつ)の人であるということが良く理解できた。また、イエスを殺した人々は全ユダヤ人ではなくユダヤ教の偉い人々である(大祭司や律法学者)。

 
メッセージ - C年 四旬節

 

「そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」マコ 11:9-10

エルサレムに入城されたイエスを王様として歓迎している群衆を見るとイエスの活動は大成功したように見えるでしょう。その時、イエスに従った弟子たちは、イエスの仲間であることを誇りに思っていたに違いないと思います。けれども、ホサナ(私たちを救ってください)と叫んだ群衆は、数日後に「十字架に付けろ」と叫ぶようになったし、殆どの弟子たちは、イエスの仲間であると認める勇気がなくて、イエスを離れてしまったのです。

恐らく群衆がイエスを王様として迎えたのは、イエスの力を知って、イエスこそが彼らの要求やいろいろな期待を満たしてくれると信じたからでしょう。けれども、イエスが指導者たちによって逮捕されて、裁判に掛けられたら、自分を守る力さえ持っていないように見えたので、同じ群衆はこの人を味方にしても、自分の利益にならないと思って、イエスより力強く見えた指導者たちの味方になり、自分たちを騙したと思ったイエスのために死刑を請求するようになりました。

イエスは、自分の働きが成功したように見えても、自分の使命を忘れずに、父である神に頼り続けたし、神に見捨てられたように感じて、失敗したように見えても、神に信頼し続けました。結果的に、イエスは、どんな状況においても、父である神の命を受けて、神によって生かされていましたし、受け入れた命を他の人に伝えて、他の人を生かすことができたわけです。

私たちは、自分の要求を中心にして生きていた群衆や弟子たちのように、絶えず変わる状況に振り回されることなく、逆に、イエスのように本当に大切なことを知り、父である神を愛することによって、どんな状況においても父である神に忠実に生き、神が定めた目的に向かって力強く生きることができるように祈りましょう。

 
主日の朗読聖書 - C年 四旬節

ヨハネ8・1-11
1〔そのとき、〕イエスはオリーブ山へ行かれた。2朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められ た。 3そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4イエスに言った。「先生、この女は姦通をし ているときに捕まりました。5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」6イエスを試 して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエ スは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けら れた。9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
10イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」11女が、「主よ、だれも」と言う と、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 
主日の朗読聖書 - C年 四旬節

テーマ :新しい事

第一朗読:イザヤ43,16-21

先の事どもを思い出すな。 昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。 (Isa 43:18-19 JAS)

第二朗読:フィリピ3,8-14

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、 (Phi 3:8 JAS)

福音朗読:ヨハネ8,1-11

イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕 (Joh 8:10-11 JAS)

 
釈義 - C年 四旬節

第一朗読:イザヤ43,16-21

第一朗読の言葉は第二イザヤ(イザ40-66)の中の一節である。第二イザヤにはさまざまな章がある。そのうちイザヤ41-48章はバビロニアで書かれた章である。第二朗読の言葉はユダヤ人たちがエルサレムに戻る前に告げられた予言である。ユダヤ人の父は昔の神の業を思い出すより(エジプトから開放されるということ)新しい神の業に注目するはずだ。新しい業とは、神がユダヤ人たちをバビロニアから解放するということである。

第二朗読:フィリピ3,8-14

第二朗読のパウロの言葉は「信仰による義」という神学的な問題と関係がある。パウロはユダヤ人として、またファリサイ派の人としてモーセの律法を完全に守るために精一杯頑張った。それは彼の誇りであった。しかし、イエスがメシヤであるということを信じるようになったため、古い誇りを捨ててイエスの僕になって最後まで信仰による義を述べ伝えた。

福音朗読:ヨハネ8,1-11

ユダヤ教の律法に従えば、間違いなくこの女性は死ぬであろう。モーセの律法によれば、罪を犯した人は誰でも死ぬはずである。しかし、イエスの答によれば、群衆の中で罪を犯さない人がいないのだから、すべての人々が殺されるはずだ。しかし、そうはならない。神に許された人は隣人の罪を許すはずである。