メッセージ - C年 年間

主の降誕の準備となる待降節が近づき、典礼暦が終わりに近づくと、ミサの朗読でも終末に関する箇所が読まれるようになります。一年の終わりにあたって、私たち自身の終わり、世の終わりについて考えるためです。

世の終わりというものは、私たちが生きている内には来なさそうですが、この主日の福音朗読(ルカ21:5-19)に描かれている戦争、暴動、地震、飢饉、疫病などという「恐ろしい現象」(21:11)は、今もこの世界で絶え間なく起こっています。被害が及ばないところにいても、そんなニュースを聞く度に心が痛みますが、実際にその渦中にある当事者の方々にとっては、本当に世の終わりのように感じられる悲劇だろうと思います。日本のような、命の危険が少ないところにいても、近しい人による裏切りや人から憎まれる(21:16-17)ということは体験することがあるだろうと思います。

「終末」「世の終わり」は私たちが生きている間には来ないかもしれませんが、残念ながらそれでも様々な痛みや苦しみは絶えることがありません。抱えきれず倒れてしまうほどのつらさもあるでしょう。この聖書箇所のように、イエスご自身も苦しみが存在することを否定していません。けれども、それがすべてではない、それで終わりではない、と語られます。この世界には憎しみも苦しみもあるけれども、同時に愛もあります。弱った人を力づける声があり、傷ついた人に差しのべる手があり、不安なときにそっと寄り添ってくれる存在があります。「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(21:18)という約束は、希望があることを見失いがちな私たちの目を上へと向けさせる言葉です。

 
メッセージ - C年 年間

私たちは皆生きている間必ずなんらかの「苦しみ」を背負っています。しかし、その苦しみが「絶望」を生むのか、それとも「希望」を生むのか、両方の可能性があります。その分かれ道はどこにあるのでしょうか。それはその苦しみの「理由、原因」が分かるかどうかというよりは、その苦しみの中に「意味」を見いだせるかどうかということです。ヴィクトール・フランクルが言うように、「絶望とは意味なき苦悩です」。アウシュヴィッツ強制収容所で彼が体験したように、究極の苦しみの中にあって「なぜ、こんなことが自分に起きたのか」とその「理由」は分からなくても、この苦悩には何らかの「意味」があると気づいた時に、人はその苦しみを耐え抜くことができます。

ところで、ペル人の解放神学者グスタフ・グティエレス(ドミニコ会の司祭)によれば、世の中には二種類の人間がいると言います。一つは、希望を探している人々あるいは希望を見つけようとする人々です。もう一つは、キリスト者です。両者には大きな違いがあります。多くの人は日々一生懸命に希望を探して、見出そうとしています。キリスト者は希望を探しているのではなく、希望を持っています。キリスト者は生きている希望です、歩いている希望です、と解いています。

もしそうであるならば、キリスト者としての使命は正に世界にその希望を伝える、証することではないでしょうか。第一朗読の七人兄弟とその母親のように死を前にしてもその希望を持つことができるのは、その死には意味があるからです。あるいは、第二朗読の使徒パウロの言葉を借りれば、私たちには「永遠の慰め」「確かな希望」を既に見出しているからです。それは「復活」という希望です。まさに福音の言葉にあるように、私たちの「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」だからです。キリスト者にとっての確かな希望、永遠の慰めは神が用意してくださる「復活」に他なりません。復活への希望をもって生きているのがキリスト者というものではないでしょうか。

 
メッセージ - C年 年間

福音朗読箇所の徴税人の頭ザアカイのお話(ルカ19:1-10)では、人間関係の変化が視覚的に表現されています。

ザアカイはエリコの町にやってきたイエスを一目見たいと思いましたが、背が低かった彼は、群衆にさえぎられて見ることがかないません。背が低いので人々に上から見下ろされることになるでしょうが、それはまるで、支配者であるローマの手先として税金に上乗せして取り立てていた徴税人の元締めである彼が、同胞からは罪人として見下されていた姿を現しているかのようです。単に背が低かったので見えなかったのではなく、意識的に邪魔されていたのかもしれません。

そこでザアカイはいちじく桑の木に登って、物理的に群衆の上の有利な位置を確保してイエスを見ようとしますが、これもローマの威を借りてお金を無理に取り立てるザアカイの、ユダヤ社会における立ち位置を示しているようです。このエピソードの後半でザアカイが語る「だれかから何かだまし取っていたら」という言葉は、実際にザアカイが権力をかさに弱者をしいたげていたことを示唆します。

さて、木の上のザアカイに、イエスは「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と声をかけます。ザアカイは降りてきて、喜んでイエスを自分の家に迎え入れます。それまでは、人々から罪人だと上から見下されるか、逆に権力で上からお金をむしり取るか、上下の人間関係しかなかったザアカイですが、木の上から降りて来てイエスと同じ高さの目線で向き合います。ザアカイの家の客となることは、彼の仲間、友人となることです。社会からのけ者にされ、また社会を食い物にしてきたザアカイにとっては、初めての「友人」体験だったでしょう。その結果、彼は、不正な取り立てについて四倍にして返すこと、貧しい人に財産の半分を施すことを誓い、イエス以外の社会の共同体との和解にも開かれていきます。

イエスの「今日、救いがこの家を訪れた」という言葉は、ザアカイが他者との、そして神との本来あるべき関係を取り戻したことを表しているかのようです。

 
メッセージ - C年 年間

この主日の福音朗読箇所(ルカ18:9-14)では、「祈るために神殿に上った二人のたとえ」が語られます。「自分は正しい人間だとうぬぼれて他人を見下している人」の代表であるファリサイ派の人と、「罪人」の代表である徴税人の二人です。二人が祈るために神殿に上るのですが、ファリサイ派の人は、自分が徴税人のような人間ではないことを感謝しながら、自分がどれほど律法の義務以上のことをしている熱心な者であるかを語ります。一方、徴税人は、自分の罪深さゆえに前の方に出ることも目を天に上げることもできず、胸を打ちながら「罪人のわたしを憐れんでください」と神に願います。

二人の姿は対照的です。胸を張って誇らしげな姿が目に浮かぶようなファリサイ派の人の祈りの言葉は、彼自身に向かうものであり、感謝の言葉も神の恵みに対するようには聞こえません。他方、徴税人は、罪にまみれた自分自身を神の前に差し出し、さらけ出し、神からの憐れみを求めます。

「祈り」と言うと「願い」が真っ先に思い浮かびますが、感謝も賛美も、後悔も嘆きも、うらみごとでさえも、どんな思いも祈りになりえます。しかし、それが最終的に自分の中でだけ完結していては祈りにはなりません。私たちが祈るとき、その思いはどこに向けられているでしょうか。

 
メッセージ - C年 年間

今日の福音では、「やもめと裁判官」のたとえが話されています。人を人とは思わない裁判官が、弱い立場で裁判を開くことに何の利益ももたらさないやもめの、しつこい訴えのために裁判を行おうとする話です。このような人を人とは思わない裁判官でも、やもめの訴えを聞くのだから、慈しみ深い神が私たちの祈りを聞かないはずがないということを、そしてこの話を通して、気を落とさず絶えず祈ることの大切さをイエスは教えています。そして福音の中で「神は速やかに裁いてくださる」と教えられています。この「裁き」は弱い人、正しい人を守るための裁きであり、神が私たちを導き、守ってくださることを示しており、これが私たちにとっての信仰です。一方で私たちの生活の中で、祈りではどうにもならないと思われるような出来事も世の中にはあります。そう言った中で私たちの祈りがどのような意味を持つのかという疑問も出てきます。

そのことを踏まえたうえで祈りの意味を考えた時、いつも「希望」を絶やさないことに意味があるように思えます。この福音の場面は、私たちが祈る時の態度を教える一方、キリスト者たちが困難の中にあっても、祈りを通して恵みが与えられるという励ましの言葉にもなっています。私たちがどうにもならないような困難の中にあっても、イエスに従うことを通して、困難の先にある希望に常に心を向けることが祈ることの意味であるように思えます。その希望をイエスは十字架上での死と復活という過越の神秘を通して示されました。私たちも困難の中にあっても、イエスと同じ十字架を担うことを通して、神からの恵みと導きが与えられます。だからこそ私たちは困難の先にある希望に常に目を向けて祈り続ける必要があり、「神は速やかに裁いてくださる」という希望が私たちの信仰であると言えるのだと思います。