メッセージ - C年 四旬節

「すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。」ルカ 9:35

よく祈る人は、安らぎや大きな喜び、また、神の愛や神の臨在を体験したことがあるはずです。恐らく、そのような体験をしている人は誰でも、少しでも長くそれを味わいたい、少しでもこの時間を伸ばしたいと望んでいるのではないかと思います。素晴らしい体験を与えられて、仮小屋を三つ建てようとしたペトロは、同じようにこの体験を手放したくなかったでしょう。けれども、この素晴らしい体験を与えた神は、ペトロに仮小屋を建てることを許したのではなく、イエスに聞き従うように命じたのです。

確かに、父である神が私たちにくださる賜物を喜んで受け入れて、それを心から楽しむことは良いことです。けれども、この賜物を自分の物にしたり、それを自分の楽しみや欲望を満たすために使ったりしてはなりません。なぜなら、その時、この賜物はその与え主が求めるような実を結ぶことができないだけではなく、私たちに害を与えることもありえるからです。

神が私たちにいろいろな賜物を与えてくださるのは、御自分の栄光と御自分の愛を表すことによって、私たちの信仰、希望と愛を強めるためです。こうして強められた私たちが神の愛する子であるイエスに忠実に従うことができるようになるのです。神の賜物を楽しむのではなく、イエスに従うことが一番重要なのです。なぜなら、それによってだけ、私たちは少しずつイエスの姿に変えられ、イエスと同じように神の心に適う神の子になるからです。最終的に、イエスのように神の心に適う神の子になるということは、私たちが創造された目的であり、私たちにとって最高の幸福、しかも永遠に続く幸福なのです。

 

 
主日の朗読聖書 - C年 四旬節

ルカ4・1-13 (四旬節第1主日)
1〔そのとき、〕 イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、 何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書い てある」とお答えになった。5更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力 と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものにな る。」8イエスはお答えになった。
「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』
と書いてある。」9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。10というのは、こう書いてあるからだ。
『神はあなたのために天使たちに命じて、
あなたをしっかり守らせる。』
11また、
『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える。』」
12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。13悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

 
主日の朗読聖書 - C年 四旬節

テーマ :唯一神を信じる

第一朗読:申命記26,4-10

今、ここに私は、主、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。」あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前に礼拝しなければならない。 (Deu 26:10)

第二朗読:ローマ10,8-13

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 (Rm 10:9)

福音朗読:ルカ4,1-13

イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある。」 (Lk 4:8)

 
釈義 - C年 四旬節

第一朗読:申命記26,4-10

出エジプト記によれば(出13,11-16)、すべての初めて生まれた生き物と初めて取れた植物は神に捧げなければならない。しかし、初めての子の代わりに動物を捧げることが許された(ルカ2,23)。捧げられた物は祭司が使うことができる(民18,12)。この習慣は他の国民にもあったが、ユダヤ人がこの習慣を守る理由は、神の力おかげでエジプトから解放されたという経験からであった。神に救われたユダヤ人が神の持ち物になった。

第二朗読:ローマ10,8-13

ローマ使徒への手紙の主題は「信仰による義」である。パウロによれば、救われるためにはすべての人に信仰が必要である。信仰というのはイエスを信じていることである(ローマ10、9-10)。ユダヤ人は信仰によって救われる。異邦人は信仰のおかげで救われる(ローマ10,12-13)。いずれも、救われるためには信仰が必要である。

福音朗読:ルカ4,1-13

ルカによれば、荒れ野の中で悪魔から受けた誘惑は、イエスの活動が始まる前に行われた準備であった。聖霊の内に荒れ野に行ったイエスは自分の活動の方法を選択しなければならなかった。イエスが決めた方法は社会的な活動(4,3-4)や政治的な活動(4,5-8)や英雄的な方法(4,9-12)ではなく、神の言葉を聞き(4,4)、神に礼拝し(4,8)、神を信頼する(4,12)ことであった。このことを決めた後イエスは自分の活動を始めた。

 
メッセージ - C年 四旬節

テーマ:「人はパンだけで生きるものではない」

私たちは、自分で作ったご飯を食べ、自分の働きによって生きると思っている人が多いです。他の人々は、親、家族、地域社会、先輩、先生、又、大地の実り、技術的発見、富や国の権力などによって幸せに生きることができると信じています。こう言ったものは、人によって、また使い方によって善、また悪をもたらします。福音の中で、イエス様は聖霊によって導き出されて、これらのものから離れるようにされ、荒れ野に退かれました。キリストは、人も食べ物も自然の恵みも、社会が与える恵みも、何もなかった所で40日間過ごされ、空腹を感じられたと記されています。そこで、イエス様は悪魔から誘惑を受けましたが、それを退けられました。悪魔の言葉を借りると、「神の子なら」という表現は誘惑のポイントになりました。

イエス様は真の神と同時に真の人です。神が誘惑を受けることはあり得ないから、イエス様は人間として私たちと同じように悪魔から誘惑を受けたと言います。人間としてのイエス様は心の中で、自分が神の子だから出来ないことは何一つないのに、なぜ、砂漠で一人飢え渇く必要があるのでしょうか。なぜ、天使たちによって賛美されて人から誉れを受け、世界を支配してあらゆる富に満たされて神様らしく生きることはいけないのだろうか、という気持ちがあったに違いありません。しかし、このような誘惑は神について人間的な考え方によるものです。神の御心は自己中心ではなく、無償に与える愛です。

気持ちと心は違います。誘惑に負けることは、気持ちに従うことであり、誘惑を退けることは、神との出会う場である心に従うことです。神だからキリストは悪魔の誘惑を退いたわけではありません。もし、キリストが、神として誘惑に打ち勝ったならば、神と人、創造主と被造物の次元の大きな差のために、私たちの模範にもならず、私たちもキリストに従うことはできません。キリストは、イスラエルの民が40年間砂漠の中で受けた試練と誘惑を、御自分で40日の間に受けたという解釈もあります。イスラエルの殆ど皆は、環境、事情、指導者たちのせいにして罪を犯しました。しかし、イエス様は御心に従って罪を犯しませんでした。

四旬節を始めるに当たり、私たちはこの世にある様々な誘惑の中で自分の気持ちに流されて心を乱していないかを調べる必要があります。この季節は、節制、回心と善行で特徴づけられています。私たちは今、内面的な意味で聖霊によって何もない砂漠に導かれています。その中で、私たちも何によって生かされているかを再発見する必要があります。イスラエルは砂漠の中で「神の十戒(直訳:十の言葉)」を見出しました。神は、「見よ、わたしは、きょう、命と幸い、および死と災いをあなたの前に置いた。」(申命記30,15)と言って、神と共に生きるために命(神の言葉)を選ぶようにとモーセを通して呼びかけていました。砂漠は誘惑に負ける死を表現します。今日の福音のイエス様は、次の申命記の箇所を引用して誘惑を退けるための模範を残してくださいました。

「人はパンだけで生きるものではない。

人は主の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(申8,3)と。