釈義 - C年 四旬節

第一朗読:申命記26,4-10

出エジプト記によれば(出13,11-16)、すべての初めて生まれた生き物と初めて取れた植物は神に捧げなければならない。しかし、初めての子の代わりに動物を捧げることが許された(ルカ2,23)。捧げられた物は祭司が使うことができる(民18,12)。この習慣は他の国民にもあったが、ユダヤ人がこの習慣を守る理由は、神の力おかげでエジプトから解放されたという経験からであった。神に救われたユダヤ人が神の持ち物になった。

第二朗読:ローマ10,8-13

ローマ使徒への手紙の主題は「信仰による義」である。パウロによれば、救われるためにはすべての人に信仰が必要である。信仰というのはイエスを信じていることである(ローマ10、9-10)。ユダヤ人は信仰によって救われる。異邦人は信仰のおかげで救われる(ローマ10,12-13)。いずれも、救われるためには信仰が必要である。

福音朗読:ルカ4,1-13

ルカによれば、荒れ野の中で悪魔から受けた誘惑は、イエスの活動が始まる前に行われた準備であった。聖霊の内に荒れ野に行ったイエスは自分の活動の方法を選択しなければならなかった。イエスが決めた方法は社会的な活動(4,3-4)や政治的な活動(4,5-8)や英雄的な方法(4,9-12)ではなく、神の言葉を聞き(4,4)、神に礼拝し(4,8)、神を信頼する(4,12)ことであった。このことを決めた後イエスは自分の活動を始めた。

 
メッセージ - C年 四旬節

テーマ:「人はパンだけで生きるものではない」

私たちは、自分で作ったご飯を食べ、自分の働きによって生きると思っている人が多いです。他の人々は、親、家族、地域社会、先輩、先生、又、大地の実り、技術的発見、富や国の権力などによって幸せに生きることができると信じています。こう言ったものは、人によって、また使い方によって善、また悪をもたらします。福音の中で、イエス様は聖霊によって導き出されて、これらのものから離れるようにされ、荒れ野に退かれました。キリストは、人も食べ物も自然の恵みも、社会が与える恵みも、何もなかった所で40日間過ごされ、空腹を感じられたと記されています。そこで、イエス様は悪魔から誘惑を受けましたが、それを退けられました。悪魔の言葉を借りると、「神の子なら」という表現は誘惑のポイントになりました。

イエス様は真の神と同時に真の人です。神が誘惑を受けることはあり得ないから、イエス様は人間として私たちと同じように悪魔から誘惑を受けたと言います。人間としてのイエス様は心の中で、自分が神の子だから出来ないことは何一つないのに、なぜ、砂漠で一人飢え渇く必要があるのでしょうか。なぜ、天使たちによって賛美されて人から誉れを受け、世界を支配してあらゆる富に満たされて神様らしく生きることはいけないのだろうか、という気持ちがあったに違いありません。しかし、このような誘惑は神について人間的な考え方によるものです。神の御心は自己中心ではなく、無償に与える愛です。

気持ちと心は違います。誘惑に負けることは、気持ちに従うことであり、誘惑を退けることは、神との出会う場である心に従うことです。神だからキリストは悪魔の誘惑を退いたわけではありません。もし、キリストが、神として誘惑に打ち勝ったならば、神と人、創造主と被造物の次元の大きな差のために、私たちの模範にもならず、私たちもキリストに従うことはできません。キリストは、イスラエルの民が40年間砂漠の中で受けた試練と誘惑を、御自分で40日の間に受けたという解釈もあります。イスラエルの殆ど皆は、環境、事情、指導者たちのせいにして罪を犯しました。しかし、イエス様は御心に従って罪を犯しませんでした。

四旬節を始めるに当たり、私たちはこの世にある様々な誘惑の中で自分の気持ちに流されて心を乱していないかを調べる必要があります。この季節は、節制、回心と善行で特徴づけられています。私たちは今、内面的な意味で聖霊によって何もない砂漠に導かれています。その中で、私たちも何によって生かされているかを再発見する必要があります。イスラエルは砂漠の中で「神の十戒(直訳:十の言葉)」を見出しました。神は、「見よ、わたしは、きょう、命と幸い、および死と災いをあなたの前に置いた。」(申命記30,15)と言って、神と共に生きるために命(神の言葉)を選ぶようにとモーセを通して呼びかけていました。砂漠は誘惑に負ける死を表現します。今日の福音のイエス様は、次の申命記の箇所を引用して誘惑を退けるための模範を残してくださいました。

「人はパンだけで生きるものではない。

人は主の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(申8,3)と。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

ルカ5・1-11 (年間第5主日)
1イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。2イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧に なった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みに なった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。4話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。5シ モンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。6そして、漁 師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。7そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるよう に頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。8これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主 よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。10シモンの仲間、ゼベダ イの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」11そこで、 彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

テーマ : 神に呼ばれた人

第一朗読:イザヤ6,1-2a.3-8

私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」 (Is 6:8)

第二朗読:一コリント15,1-11

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。 (1Co 15:10)

福音朗読:ルカ5,1-11

「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」 (Lk 5:10)

 
釈義 - C年 年間

第一朗読:イザヤ6,1-2a.3-8

第一朗読の言葉は「エマニュエル書」と呼ばれている文書の始めである(イザ6-12)。この言葉の歴史的な背景にはシリヤ-エフライム戦争がある(紀元前735‐734)。その時、イザヤが預言者になるべく神に選ばれた(イザ6,6)。彼の仕事はこの困難な時期に国民の希望を守るため、やがて現れる救い主について預言を述べ伝えることであった(イザ9,1-6)。ユダヤ人にとって神を見た人は必ず亡くなるが、イザヤの場合は異なる。イザヤにされた啓示(イザ6,1-5)の目的は命を取ることではなく彼を預言者にすることであった(イザ6,5)。

第二朗読:一コリント15,1-11

一致が無いコリント原初キリスト教の中にはイエスが復活されたということを信じていない人々もいた(1コリ15,12)。だから、イエスが復活されたと言う教えは最初からキリスト者にとって基本的な部分であった(1コリ15,3-6)。パウロにとっても復活されたイエスに会ったということが彼の信仰の源泉であった(1コリ15,8-10)。それだけではなく、イエスを信じるようになったサウロ/パウロは身体復活の教えを述べ伝えるため、イエスに選ばれた人になった(1コリ15,11)。

福音朗読:ルカ5,1-11

シモン・ペトロは漁師として自分の仕事に関することをよく理解していた(ガリラヤ湖では朝早くと夜遅くにしか魚がとれない)。だから、ペトロにとってイエスの行いは偶然ではなく、その人に特別な力があるということの証であった。この行いはペトロの信仰の源になった。信仰を持っているペトロはイエスの弟子になるために選ばれた。