メッセージ - C年 年間

「グレゴリオ」とか「グレゴリウス」という名前で呼ばれる教皇や聖人は何人もいますが、この名前の由来となっている言葉は、ギリシャ語の「グレーゴレオー」という動詞です。この言葉はこの主日の福音朗読(ルカ12:35-40)の中で使われていて、「目を覚ましている」と訳されています。しかし「目を覚ましている」と言っても、その意味は、単に「眠っていない」「目を開けている」ということではなくて、「用心深くいること」、「油断せずにいること」、「警戒を怠らないこと」、つまり「寝ずの番をすること」です。いつ婚宴から帰ってくるかわからない主人をふさわしく迎えようと準備しながら待っているしもべたちのたとえにぴったりの言葉です。

職業としての仕事にはフルタイムもパートタイムもあります。フルタイムの仕事であっても、決まった勤務時間があり、そこから離れる時間はあります。けれども私たちの生き方には、パートタイムも休みもありません。家族であること、本当の友人であることのように、強い結びつき・関わりは、パートタイムではありえません。私たちがキリスト者として生きる、ということも同じです。日曜日、教会にいるときだけキリスト者のようにふるまうけれども、家に帰ったら、教会と関係ない人との関わりでは、あるいは職場や学校にいる間は、キリスト者であることをやめる、そういうことはありません。そうではなくて、24時間、365日、いつもキリストに従うものとして生きるように求められています。

それは厳しいことのようにも思えますが、私たちはいつも見守られているのであって、見張られているのではありません。その絶え間ない見守りに応える、絶え間ない誠実な生き方こそ、キリスト者としての生き方です。

 
メッセージ - C年 年間

この主日の三つの朗読箇所は、いずれも何が私たちにとって本当に大切なことかを問いかけています。

第一朗読のコヘレトの言葉(1:2、2:21-23)では、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」というフレーズが印象的ですが、私たちの生は確かに空しさにとらわれることがあることを指摘しつつ、果たしてそれに絶望して終わりなのか、と問いかけます。

第二朗読のパウロのコロサイの教会への手紙(3:1-5, 9-11)では、上にあるものを求め、地上的なもの(けがれた思いや行い、貪欲など)を捨て去るように語られています。

福音朗読(ルカ12:13-21)では、遺産の分配について不満を述べる人に対して、イエスは、財産への貪欲さを捨て、「神の前での豊かさ」を求めるようにと呼びかけています。

私たちの普段の日常生活の中では、何かをあきらめたりしなくても様々なものが同時に手に入ることが多いので、あえて優先順位をつけて価値を比べることはあまりありません。あいまいにして、見ないことにしておろそかにしてしまっていることもあるでしょう。けれども、何か大きなものを失ってしまったとき、やっと本当に必要なものの存在に気づかされます。一方を捨て他方を選ばなければならないとき、自分にとって本当に大切なものが何かを思い知らされます。真に価値あるものを見失わないように、難しい選択から目を背けないように、聖書の言葉は私たちを後押ししています。

 
メッセージ - C年 年間

「祈り」は私たち自身の心のあり方を形にしたものなので、様々な表わされ方があります。感謝、賛美、悔い改めなどですが、やはり最も大きな要素は「願い」でしょう。この主日の福音朗読(ルカ11:1-13)で、イエスが弟子たちに教えている「主の祈り」もそうですし、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(11:9)という言葉も願いとしての祈りのあり方を強調しています。

よく言われることですが、祈りは、願ったとおりそのままかなうとは限りません。確かに、願っていたこととは違う形になったけれども、それでも後から振り返ると結果的には良かった、と感じることはたびたびあります。必ずしも祈りの願いの言葉通りに物事が実現することが祈りが聞き入れられることではない、と肝に銘じておくべきです。しかし、だからといって祈ることが必要ない、意味がない、ということにはなりません。

私たちが本当に大切にしていることに関してであれば、自分の生き方に根ざした祈りが自然に沸き上がってくるはずです。心からの願いがあふれでてくるはずです。不満も叫びも含めて自分の心をありのまま神の前にさらしつつ、同時に自分が最善を知っているわけではない、という謙遜さを持ち合わせることが、不完全な人間としての誠実な姿勢なのかもしれません。

 
メッセージ - C年 年間

今日の福音朗読(ルカ10:38-42)は、有名なマルタとマリアのお話です。イエスが自分の死と復活を予告し、後々、捕らえられて十字架につけられることになるエルサレムに向かって旅を始める、その途上でマルタとマリアが住む村に立ち寄った。そういう状況の中で、まるで遺言のように神の国について語るイエスの足下に座って話を聞いているマリアと、食事の準備などもてなしのために忙しく立ち働いて、自分を手伝わないマリアに不満をもらすマリア、その二人を比べて、マリアは必要なこと、良い方を選び、マルタは多くのことに思い悩み、心を乱している、とされた。

この出来事を前提から結末まで知っていて、外から客観的に見ている私たちにとっては、マルタではなくマリアの方がイエスの望んだことをした、というのはよくわかります。けれども、自分がマリアやマルタの立場だったら、目の前にイエスがいない私たち自身の日常のことだったら、何が私たちにとってただ一つだけの必要なことで良い方なのか判断して実行できるか、というと話は別です。

私たちは、はっきりした答えがない毎日を生きています。けれども、慰めであり励ましであるのは、マルタがしていたおもてなし自体も、 決して否定されているわけではない、ということです。ただ、マルタは多くのことに思い悩んで心を乱していた。私たちも同じです。自分自身と、他の人がしていることを比べて、妬みや不満から、他者を裁いてしまうことがあります。そんな私たちに、イエスは「あなたに必要なことは一つだけだ、それを一生懸命、よそ見をしながらではなくて、心を込めてやりなさい」、そう語られているように感じます。

 
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「私の隣人は誰なのか」というあの律法学者の質問がきっかけでイエスは良きサマリア人のたとえを話されました。この話の中に登場人物をもう少し詳しく見てみましょう。

先ず、追いはぎに襲われた人ですが、彼はエルサレムからエリコヘ下っていく途中でした。つまり、彼はユダヤ人だという可能性が高いです。地方に住むユダヤ人が都エルサレムに行く第一の用事はエルサレムの神殿で神様に捧げものを捧げることです。この人もその用事が終わって、帰っていた途中で襲われたということは考えられます。

彼が半死に状態にいた時に、その道に取り掛かったのが一人の司祭でした。もともと祭司の仕事はエルサレム神殿で人々の代わりに神様に捧げものを捧げる儀式を司る役割を果たします。おそらく、この司祭もエルサレムでの務めが終わって、地方に戻っていく途中であの追い履きに襲われた人を見かけたでしょう。

次に通りかかったレビ人も司祭と同じように、神殿で神様に供え物を捧げる儀式を手伝うのが仕事です。そうだとすれば、司祭もレビ人もあの追いはぎに襲われた人にとっては、同胞のユダヤ人です。同じユダヤ教の人、同じヤーヴェを信じる人、共通点が多い人たちです。

一方、もう一人そこに通りかかった人、あのサマリア人はユダヤ人にとっては軽蔑された人々です。サマリア人はもともとはユダヤ人ですが、アシリア帝国に支配されてから外国人と血が混じっているということでユダヤ人からは純粋なユダヤ人ではない、異端者とみなされるのです。

しかし、追いはぎに襲われた人を助けるのは、同胞のユダヤ人ではなく、軽蔑されて敵とみなされるサマリア人です。結局、追いはぎに襲われた人にとって、隣人となるのは、同じ民族、同じ宗教、しかも宗教指導者(神様の仕事をして、神様と一番近いと思われる人、もしかすると神殿で供え物を捧げた時に面識のある人)ではなくて、普段は嫌がられる人、軽蔑される人です。

隣人は、会う・会わない、好き・嫌い、関係者・関係者ではないという枠を超えるものです。枠を超えて目の前に困っている人を進んで助けることができた時に、初めて私はその人の隣人となるのです。一緒に住んでいても、同じ教会に通っていても、面識があって、ある程度は知っているからといって、その人の隣人になるのではないのです。その人のために時間を裂いて、その人のために自分の予定、自分の持ち物、自分自身を犠牲することができた時に、初めて私はその人の隣人となるのです。

良きサマリア人のようになるには、自分のところにやってくる人を待つのではなくて、自ら進んで声をかけて、たち止まって手を差し伸べる勇気が求められます。