メッセージ - C年 年間

この主日の福音朗読(ルカ9:51-62)では、イエスに従おうとする者たちへの、イエスの弟子になるための覚悟について述べられています。というのも、ここでイエスは「エルサレムに向かう決意を固められ」(9:51)、旅を始めるのですが、その旅の終着駅はゴルゴタの丘の十字架だからです。その旅の始まりにあたり、弟子たちに「それでも私についてくる覚悟があるのか」という厳しい問いかけがされているのです。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない」、「死んだ父親は死んだ者に任せて葬らせ、自分は神の国を言い広めなさい」、「鋤に手を掛けて後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」、このような極端な言葉も、上記のような背景を考えると、よく理解できると思います。

私たちにとって、現実的にはこのような厳しい条件を満たす必要はないでしょう。寝るところ、住むところはありますし、家族や親しい人が亡くなれば、そのために葬儀にも参列します。別れを告げずに家族と離れることもありません。けれども、私たちにとって、イエスに従おうとするなら、何を優先するのか、何が私たちにとって一番大切なことなのか、それを見極めて選ぶという意味では、弟子たちにとっても私たちにとっても同じことでしょう。

そしてこの厳しさは、私たちが自分自身に向けて問いかけるものであって、他の人に向けて攻撃したり裁いたりするものではありません。イエスを歓迎しなかったサマリア人に対して、「火で焼き滅ぼしましょうか」というヤコブとヨハネの態度を戒めたイエスの姿に、それを見ることができます。

 
メッセージ - C年 年間

この主日の福音朗読の箇所は、五つのパンと二匹の魚パンによって、男だけで五千人もの人が満たされた、というイエスの奇跡の出来事(ルカ9:11b-17)です。もちろん、お話としてのインパクトはその奇跡の部分にありますが、本当に大切なことは、もっと目立たないところにあるような気がします。

たった五つのパンが解散するはずだった五千人を一つにしました。日が傾きかけて、十二人の使徒たちが言ったように、もう後は三々五々バラバラに別れて帰るしかなかった大勢の人たちが、これによって一つにとどめられました。あちこちの異なる村々からやって来た人たちを、このパンが一つに結びつけました。この交わりに、「すべての人」(9:17)が招き入れられ、パンが与えられました。お金がある人、社会的地位が高い人だけが優先して手に入れられたのではなく、誰一人、その交わりからこぼれ落ちることはありませんでした。

イエスが神の国について語り、病人のいやしを行っていたときのことだった(9:11)、というのも象徴的です。イエスが語る神の国とはどんなものなのか、そのメッセージと深く結びついている出来事ではないかと思います。

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メッセージ - C年 年間

三位一体の主日ということで、「父と子と聖霊」という三位一体の神に関連した朗読箇所が選ばれています。

第一朗読(箴言8:22-31)に見られる、創造に先立って存在した「知恵」は、神のことばであるキリストに重ね合わせられます。

第二朗読(ローマ5:1-5)では、キリストこそ私たちと神との間を結ぶ者であり、また聖霊を通して私たちの心に神の愛が注がれる、と語られます。

福音朗読(ヨハネ16:12-155)では、父である神のものは子であるイエス・キリストのもの、イエスのものを聖霊は弟子たちに告げる、と言われます。

「三位一体の神」、「三なのに一」とは、よくわからない、理解できないことですが、少なくとも上記のような聖書箇所から見て取れるのは、そこに示されている「神」は開かれている、ということです。聖書に描かれている神は、全能の神だからといって、他者を寄せつけない神ではない、ということです。むしろ自分を開き、積極的に関わりを持とうとする神です。そして、その関わりに招かれているのは、私たち自身です。

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メッセージ - C年 復活節

今日の聖霊降臨に読まれる第一朗読では、弟子たちに聖霊が下った場面が読まれています。この中で聖霊に満たされた弟子たちは、「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と書かれています。この箇所を読むとき、いつも思い出すのは、海外司牧研修中に行っていた聖書分かち合いです。言語に堪能ではなかったのでいつも不安だったのですが、不思議と通じていたようでした。この時に、私たちが互いに歩み寄ろう、理解しようとする間に聖霊はいつも働いており、弟子たちに起こった聖霊降臨の出来事も弟子たちが福音を伝えようとする熱意の中に、聖霊が働いていたのではないかと感じるようになりました。

福音でイエスは弟子たちに聖霊を送る約束をしていますが、その前に「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と言われています。それは聖霊の約束と一見関係のないように見えますが、そうではないように感じます。それは聖霊がイエスの掟を守るように、すなわち互いに愛し合いなさいという掟に私たちを導くからです。だからこそ、私たちが人を理解しよう、人に寄り添おうとするときに、聖霊は私たちを導くということを忘れてはならないように思えます。

 
メッセージ - C年 復活節

ルカ福音書によれば、自分たちの目の前でイエスが天に上げられたことを見た弟子たちは、「大喜びでエルサレムに帰りました」。イエスと別れたのに、大喜びした弟子たちのことに違和感を覚えます。

私は2ヶ月ほど前に病気していた母の容態が悪いということでインドネシアの故郷に緊急帰国休暇を頂きました。家に着いてから三日後に母は亡くなりました。目の前に母が息を引き取ったあの場面は、今も私の心の記憶に焼きついています。そして、思い出す度に淋しい気持ちが湧いてきます。

イエスと別れたあの弟子たちはなぜ大喜びで戻ったのでしょうか。もしかするとその答えは、彼らがイエスと別れた後で帰る場所である「エルサレム」と関係しているのではないかと思います。第一朗読にあるように、彼らはエルサレムでイエスが約束した聖霊が来ることを確信しているからではないでしょうか。目の前でイエスは亡くなったが、別の仕方で存在し続けるからです。そして、イエスと離れるからこそ、弟子たちはエルサレムからの新たな旅を始めることが出来たからではないでしょうか。

人には引き際が大事だと言われます。それは去っていく側にとってもそうですが、残される側にとって尚更大事だと言えます。私は母がいない淋しさと同時に以前よりも母が近くにいるという感覚もあります。母と別れたことを喜ぶ日が来るとは思いませんが、去っていくことが母からの最後のプレゼントのような気が致します。