メッセージ - C年 復活節

福音朗読箇所(ヨハネ13:31-33a, 34-35)でイエスが「新しい掟」として弟子たちに与えたのは、「互いに愛し合いなさい」という言葉でした。最後の晩餐の後にされた説教の場面ですので、これが弟子たちに残した長いイエスの最後の言葉の一部です。自分がいなくなったら、これを指針に生きていきなさい、という、いわば遺言です。

「掟を与える」といっても、もちろん上から目線で偉そうに命令しているわけではありません。「互いに愛し合いなさい」という言葉には、「私があなたがたを愛したように」という前置きが付け加えられています。実際、この直前に、イエスはその「愛」のしるしとして弟子たちの足を洗いました。食事の前に、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って弟子たちの足下にかがみ込み、土で汚れた足を一つ一つ手に取って、心を込めて洗いました。これは、そうされたペトロたちが恐縮してやめさせようとするほどのとんでもない行為でした。それだけ彼らを深く愛したということです。そのイエス自身が、「私があなたたちに示した、そのように、『同じように』お互いに愛し合いなさい」と語りかけています。イエスにとっての弟子のように、近しい人であったとしても、その汚い、嫌なところを手に取って、愛情を込めて受け入れ、やさしく包み込むことができるのか、「イエスのように」愛することができるのか、自分の心に問いかけます。

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メッセージ - C年 復活節

この主日の福音朗読(ヨハネ10:27-30)は非常に短いイエスの言葉から取られていますが、そこでは、私たちがイエスの手の内にある羊だとされています。羊は家畜の中でも、人の手を必要とする動物で、数千年もの長い間、人間に飼われてきたので、今さら野生に戻ることもできず、生まれる子羊を取り上げるところから、餌の世話などすべて助けが必要なのだそうです。また、単独ではなく群れで行動したがる動物で、群れから引き離されると強いストレスを感じるようです。その上、自分が積極的に何かを始めるより、羊飼いなり、牧羊犬なり、群れ全体なりについていく傾向がとても強いと言われています。ですから、先を行くものが間違っていてもついていってしまうようで、一匹の羊が崖から飛び出した後に、群れ全体が同じように崖から次々と飛び降りて死んでしまった、ということも起こっています。更に、非常に臆病で、何か危険に直面すると、単純にそこから逃げ出そうとする行動を真っ先に取る弱さもあります。

私たちは、このような羊にたとえられています。ことさら卑下する必要はありませんが、冷静に考えても、私たちはいつも誰かの助けを必要としながら生きています。それは物理的な援助もあるでしょうし、安心感を与えてくれる心の支え、道を示してくれる導き手でもあるでしょう。私たちは、最終的には、何に頼るでしょうか。誰の声に耳を傾けて行く先を決めるでしょうか。

イエスは私たちに対し、「わたしの羊」と呼びかけています。

 
メッセージ - C年 復活節

復活節第三主日の福音朗読(ヨハネ21:1-14)でも、復活したイエスと弟子たちとの出会いの出来事が語られますが、この話は、私たちと復活のイエスとの出会いにつながるものです。

ペトロ、トマス、ナタナエル、ヤコブとヨハネらは、ガリラヤ湖で舟に乗り込み、漁に出ました。元々ガリラヤ湖の漁師であった彼らは、ありふれた日常の中で、毎日の変わらない仕事の中でイエスと出会った、ということです。これは、必ずしも特別な時や場所、非日常的で感動的な出来事だけが、私たちと復活のイエスとの出会いの場になるのではない、ということが示唆されているようです。取るに足りない、当たり前のこと、つい見過ごしてしまうような目立たない出来事の中でも、私たちは神の恵みに触れることがあります。

また、弟子たちは復活したイエスを見て「それがイエスだとは分からなかった」とされています。生前のイエスと数年間、一緒に寝食を共にしてきた弟子たちが分からないのは変な話だと思われるかもしれませんが、「復活」が単なる「蘇生」ではないということを示しています。ともかく、私たちが出会う復活のイエスは、2000年前に生きていたときの姿形で目に見える現象として奇跡的に現れるというようなことはありません。その出会いは、私たちの心を開いて感じ取ろうとしなければ逃してしまうような、そういう出会いです。

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メッセージ - C年 復活節

福音朗読(ヨハネ20:19-31)では、イエスが同じ言葉を用いて繰り返し語りかけます。「あなたがたに平和があるように」

自分たちの師が十字架にかけられて殺された、弟子たちはその悲しみに暮れながら、同時に自分たちの命も危ないのではないかと恐れていました。これからどうなるのかわからない、不安におののきながら、みんなで集まって、家に鍵をかけてとじこもっていました。しかし、そこにイエスが来られると、彼らの恐れは喜びに変わりました。

このときトマスは不在で、他の弟子たちが「主を見た」というのを信じませんでしたが、一週間後、信じられなかったトマスは、信じる者へと変えられ、「わたしの主、わたしの神よ」という心からの信仰宣言を発しました。

イエスの「あなたがたに平和があるように」という言葉は、弟子たちの恐れを喜びに、不信を信仰に変える力強い言葉でしたが、その「平和」とは、家の中に閉じこもって平穏無事に過ごせる、ということではありませんでした。第一朗読(使徒言行録5:12-16)に見られるように、弟子たちは、皆、外へ出て行き、すべての人に喜びを告げ知らせました。あれほど恐れていたのに、命をかけてまで宣教するために世界中へと出かけていきました。

ミサの中で、司祭は「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」とキリストの言葉を唱え、会衆は「平和のあいさつ」を交わしますが、その平和は、聖堂の中だけ、ミサの間だけの平和ではありません。その平和は、私たち一人ひとりが家庭に持ち帰り、学校や職場に持って行き、毎日の生活の中で人々と分かち合う平和です。

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メッセージ - C年 復活節

今日のルカ福音書(24:1-12)もそうですが、どの福音書の復活物語でも、その始めにいわゆる「空の墓」の伝承が語られます。イエスの死後、三日目の朝早くに婦人たちが墓を訪れると、そこに納められたはずのイエスの遺体が見当たらず、墓は空になっていました。「復活」というけれども、イエス自身は登場しません。そういう意味で、これは現代の私たちにとっての復活物語でもあります。なぜなら、今、ここに生きている私たちの目の前にも、復活したキリストは現れないからです。

墓を訪れた婦人たちに現れた、輝く衣を着た二人の人が語った言葉は衝撃的です。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。あの方は生きておられる。そしてこんなところにはいない、と言うのです。もし福音書の復活物語が、私たち自身の「いま」に重なるのだとしたら、この問いかけの言葉は、私たちに対してこのように語りかけるものです。「あなたが捜している方は、生きていますか?今でもなお、あなたに希望を与え、力づけ、命を与える存在ですか?それとも、もはや過去の人、聖書のお話の中で描き尽くされてしまった登場人物で、今更あなたに何の影響も及ぼさないでしょうか?」。

墓から帰った婦人たちの話を聞いたペトロは、その場から立ち上がって、墓まで走って行きました。「復活」のメッセージは、イエスを裏切ったという自己嫌悪と主と仰ぐ人が殺されてしまったという虚無感に打ちひしがれ、悲しみの底にあったペトロを再び立ち上がらせ、走らせる力となりました。「復活」は、たとえ目に見える形ではなくても、今でも私たちを絶望や悲しみや痛みから立ち上がらせ、前へと歩ませるイエス・キリストのあり方です。

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