メッセージ - C年 四旬節

さて、今日の福音では主の変容の場面が描かれています。この四旬節の時期に、この福音が読まれるのは一見不可思議なように見えますが、弟子たちの聞いた「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声から理解することができるように思えます。福音でモーセとエリヤが現れますが、モーセは律法を、エリヤは預言者を意味し、旧約の時代に約束された救いが、イエスを通してエルサレムの最期の出来事を通して示されます。さらに父である神は救いをすべての人々に示すために、愛するひとり子を選び、人間としてこの世に送り、苦難を通して救いの道を示しました。「これに聞け」、すなわちイエスに聞き従うこと、さらに言うとイエスは受難と十字架を通して私たちに救いの道を示されますが、そのイエスに聞き従うように教えています。父である神は愛するイエスを弱い人間として送り、十字架と復活を通して栄光への道を示しましたが、私たちも同様に自分たちの十字架、弱さを背負いながらその弱さに打ち勝って復活の栄光に与るように勧められています。イエスは弱い人間となりましたが、私たち人間と共に十字架の道を歩むように招かれているように思えます。私たちが共に寄り添い、その苦難の道を歩むことこそ「これに聞け」の意味するところだと思います。ここのところウクライナ侵攻のニュースがよく聞かれます。決して対岸の火事ではありません。出来ることはないかもしれませんが、私たちが祈りのうちに共に寄り添い、この苦難を乗り越えることができるように祈りましょう。

 
メッセージ - C年 四旬節

コロナ感染が続いている中、ウクライナでの戦争で世の中が更に大変な状況に落いています。こんな時に、私たちはイエスの受難と死を思い起こしながら、信仰の中核であり頂点であるイエスの復活を迎える準備期間に入ります。

四旬節の第一主日の福音書に、あの有名なイエスの荒野での誘惑の場面が読まれます。この箇所に興味深いことがいろいろありますが、二点だけ取り上げたいと思います。一つは、イエスは『聖霊』に満ちて、ヨルダン川からお帰りになり、また『霊』によって荒野で引き回された、という記述です。ルカによれば、イエスは聖霊によって母マリアの胎内に宿られただけではなく、イエスの生涯は聖霊に導かれた生涯でもあります。また、ルカによれば、イエス亡き後の教会も、聖霊降臨の出来事で示されているように、常に聖霊に導かれているのです。イエスが繰り返す悪魔の誘惑に打ち勝つことが出来たのは、聖霊の力によるものだということです。

二つ目は、この箇所の最後に、イエスを誘惑することを失敗した悪魔は『時』が来るまで一旦イエスを離れた、とルカは伝えています。悪魔が再び戻って来るその『時』とはいつでしょうか。それは、イエスを裏切るイスカリオテのユダに悪魔が入って時に始まり、オリーブ山での祈りの時に続き、最後に十字架上の苦難の時まで続きます。しかし、荒野での誘惑と同様に、イエスは悪魔の誘惑を退け、救いの業を成し遂げることが出来ました。

私たちにとって、四旬節がイエスと共に歩む信仰の旅です。聖霊に強められて、日常直面している様々な誘惑に打ち勝ち、復活の喜びを迎えることができるように祈りながら。

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メッセージ - C年 年間

 

今日のルカによる福音の中に朗読される「まず自分の目から丸太を取り除け。」というキリストの言葉はどれほど考えるべき、実行するべき言葉でしょう!

 

実は、私たちは自分の行いよりも、相手の失敗や足りないところが気になります。それは、皆よく知っていると思います。自分の側にいる夫、妻、上長、テレビニュースで見られる政治家などを「変だ。」「間違っている。」などと言い、自分が正しいと思います。

 

神様も私たちの正しさをお望みになる方です。しかし、近道を使ってはならないということを覚えなければなりません。キリストは「悪い実を結ぶ良い木はなく、また良い実を結ぶ悪い木はない。」と教えてくださいました。私たちの正しさは相手の姿を見て比較 するものではなく、自分自身の思い、言葉、行いによるものです!この3のことに注目し、まず自分自身が良い木になり、良い実を結ぶように努力しましょう。

 

 
メッセージ - C年 年間

「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(ルカ6:27)とは、よくもこれほど厳しく、実現するのが難しいことを命じられます。悪口を言う者、侮辱する者、暴力を振るい、奪い取ろうとしてくる者のために祈り、親切にするように、という福音朗読(ルカ6:27-38)のイエスの言葉は、とてつもないチャレンジです。

ただ、「敵を愛する」とは、「嫌いな人を好きになる」ことではありません。もちろん、好きになることができれば一番いいでしょう。けれども、どんな人に対しても、どんな時にも、そうするというのは無理な話です。

しかし、すべての人を常に好きになることはできませんが、嫌いなままであっても、少なくともその人のことも神が愛し、受けいれてくださっていることを認めるということであれば、それほど不可能ではないかもしれません。怒りや悔しさを感じながらでも、相手のことを尊重することはできるかもしれません。私たちにとっては、絶対に好きになることではなく、無関心にならないことの方が重要なのかもしれません。「嫌なことをされたら忘れなさい、なかったことにしなさい」というのではなく、それでも目の前の相手に向き合って、徹底的に関わるように求められています。もし何もなければ、そこに神の愛は働きようがありません。

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メッセージ - C年 年間

今日の福音には、自身の故郷であるナザレの会堂での場面が描かれています。この福音の中でイエスは、その人々に向かって「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と教えられています。イエスをよく知っていた故郷の人々は、イエスをよく知っていたがために、イエスの教えと行ったわざを素直に受け入れることができません。ましてガリラヤの出身で大工の息子であったということから、宗教的な教育もなく、特別な存在とは思われていなかったように思えます。それだけに、イエスの社会的な立場や出身だけに囚われて、イエスが伝えようとした神の言葉、神のわざを理解することができなかったように思えます。私たちにおいても、家族や友人などの近い人の言葉は、意外に素直に受け入れられないように思えます。しかし、そういった私たちの家族、学校や会社、私たちの生活の中にいる親しい友人など、一人ひとりの中にイエスがおり、その人々を通して、イエスは私たちに語り掛けています。

しかし福音の中で民衆たちはイエスの言葉を聞いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言い、その後のイエスの言葉を聞いて、町の外に追い出し、崖から突き落とそうとします。イエスという人を知っていたが故の偏見や思い込みであったように思えます。私たちにおいても、偏見や思い込みで人の助言や考えを受け入れることができないことがありますが、だからこそ謙遜と人への尊敬の態度が必要になり、その中に神のことばを見出す必要があります。私たちは様々な国籍や地位の人々に囲まれながら過ごしていますが、イエスはすべての人々のために遣わされ、そしてすべての人々とともにおられます。私たちがその中に居られるイエスを見出すことが謙遜と尊敬の態度に繋がるように思えます。そして私たちは一時的には感情的になり、受け入れることができない助言や考えであっても、自分の中で「イエスならばどう考えるのか、どう思うのか」というイエスの視点になって、祈りのうちに人々とともにおられる神の導きを見出さなければならないのだと思います。