メッセージ - C年 年間

福音朗読の「主人と僕(しもべ)のたとえ」(ルカ17:7-10)に見られる、僕が主人に一方的に仕える関係性は、平等や人権が大切にされている現代に生きている私たちにとって、少し理解しにくいものかもしれません。昼間の畑仕事や羊を飼う仕事から帰ってきても、休むことは絶対に許されず、すぐに主人のために夕食の用意をして食事の給仕をしなければならない。主人のために昼も夜も働いても、当の主人はその僕に感謝するはずもく、ただ「私は取るに足りない僕です。しなければならないこと、当たり前のことをしただけです」と応えるのがあるべき僕の姿とされています。

私たちは皆、誰かのため、あるいは自分自身が生きていくために、それぞれ仕事をし、家庭でも家事をしますけれども、仕事をしても何の報酬もない、ということはないですし、家庭のことでもそれ以外の人との関わりの中でも、自分がしたことに対して何か反応が欲しい、と思うのは自然なことです。それは何か大きな報酬、大げさな評価でなくても、「お疲れ様」とか「ありがとう」の感謝の一言でいい、ねぎらいの言葉をかけてくれるだけでいい、自分がしたことを認めてくれるだけでもいい、そういう気持ちは誰しも持つものだと思います。

けれども、私たちが信仰に基づいて行動するとき、そうであってはならない、報酬や見返り、人からの評価はその目的ではない、というのが今日の福音全体のメッセージです。この僕のたとえの前に、からし種の話(17:6)があり、からし種一粒ほどの小さな信仰でもあれば何でもできる、と言われていますけれども、信仰を持って、神に仕えるとき、人に仕えるとき、報酬がなくても、何の得にならなくても、誰も褒めてくれなくても、感謝してくれなくても、かえって逆に反対を受けても、ばかにされても、自分の使命、正しいと思うこと、しなければならないと思うことを果たしなさい、そういう励ましの言葉が与えられています。

それはまさに、十字架の上のイエスの姿です。誰からも感謝されず、褒められることもなく、かえってののしられたり、馬鹿にされたり、裏切られたりしながらも、それでも恨むこともせず、すべての人のために十字架の上で自分の命をささげました。


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