メッセージ - A年 待降節

キリスト者でない人たちも祝うクリスマスは、電飾やツリーなどの様々な飾りつけ、おいしいものが並ぶ家庭の食卓やパーティー、サンタクロースのプレゼントなど、楽しい雰囲気の季節です。しかし、キリスト者にとっての主の降誕は、楽しいことばかりでない、厳しい現実を思い起こすときでもあります。苦しみ痛んでいる世界の現実に目を向けながら、それでも希望を持ち、そこにこそキリストが生まれるという信仰をあらたにするときです。

第一朗読のイザヤ書(35:1-6a,10)では、先週に引き続き荒れ野のモチーフが現れますが、そこに花が咲き誇ると言われ、嘆きと悲しみがあるけれども逃げ去って喜びと楽しみが迎える、と告げられています。

第二朗読のヤコブの手紙(5:7-10)では、辛抱し忍耐しなくてはならないが、それは雨が降って大地が尊い実りをもたらすのを待つようなものだと、希望があることを力強くあかしします。

福音朗読(マタイ11:2-11)では、第一朗読のイザヤ書を引用しながら、目が見えない人、耳が聞こえない人、足が不自由な人、病を患っている人、貧しい人がいるという現状を受け止めながら、しかし彼らが見たり聞いたり歩けるようになり、清くされていやされ、彼らにこそ福音が告げ知らされる、と語られます。

飼い葉桶の貧しさの中に生まれたイエスが、傷ついた人・罪を抱えた人と共に生き、彼らに神の国を告げ知らせた、苦しみと罪と死の中にこそ救いを告げ知らせたことは大きな意味があります。イエスが群衆に語りかけたように、私たちも「あなたは荒れ野で何を見たのか」と問われています。

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