メッセージ - A年 四旬節

今日の朗読箇所である、イエスが荒れ野で40日間断食した後に悪魔から誘惑を受けたエピソード(マタイ4:1-11)は、モーセに導かれたイスラエルの民がエジプトを脱出し、40年間荒れ野を旅したという旧約聖書の話を思い起こさせます。「40」と「荒れ野」というキーワードだけではなく、その誘惑の内容も大きく関係しています。

イエスが受けた第一の誘惑は「神の子なら石がパンになるように命じたらどうだ」というものでしたが、それに対して旧約聖書の申命記の言葉を引いて、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4/申命記8:3)と答えられました。断食後のイエスと同様に、荒れ野を旅していたイスラエルの民は飢えており、天からのマナを食べていましたが、しかしそこに神の働きを見るよう教えられていました。

第二の誘惑は神殿の屋根から飛び降りても天使たちが支えるだろう、というものでしたが、これに対してもイエスは申命記の言葉を用いて、「あなたの神である主を試してはならない」(マタイ4:7/申命記6:16)と答えました。荒れ野で渇いていたイスラエルは、飲み水を求めて「神が私たちの間におられるのかどうか」と主を試しました。

第三の誘惑は、悪魔を伏し拝むなら繁栄した国々を与えよう、というものでしたが、やはりイエスは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(マタイ4:10/申命記6:13)と旧約聖書の言葉でそれを退けました。この誘惑も、出エジプト後の旅するイスラエルが、たびたび神に背き、不平をのべ、更には神ではなく金の子牛を作ってそれにひれ伏し、自分たちの神としたことに重なります。

イエスが受けた誘惑は、時代を超えた普遍的な危険性を持つものです。この世のはかないものを最重要視し、神をも自分の意に従わせようとするという、同様の誘惑を受けたイスラエルの民は、たびたびそれにつまづきました。同じような誘惑は、現代の私たちにも突きつけられることがあります。私たちは、何を最も大切にしているでしょうか。四旬節はそれを振り返るときでもあります。

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