メッセージ - A年 四旬節

受難の主日はイエスの受難を思い起こす日です。今日の福音朗読(マタイ27:11-54)にあるように、イエスは捕らえられ、裁判で死刑の宣告を受け、ののしられ、侮辱され、最後には十字架にかけられましたが、この苦しみはイエスにとって、どうしても避けられないことではありませんでした。彼は祭司や律法学者たちに逆らうのをやめることもできましたが、そうしませんでした。

律法に背くと非難されながらも、福音をのべ伝え、罪人と言われる人たちに手をさしのべ続けました。国の中央から離れたガリラヤにとどまることもできましたが、あえて祭司や長老たちがいるエルサレムに入りました。ユダが裏切ることを知りながら、そのままにしておきました。自分が受けることになる苦しみを過ぎ去らせて欲しいと思いながら、しかし、神の御心が行われるように、その苦難を受け入れました。祭司長や長老たちに遣わされた群衆がやってきたとき、弟子を制して、自らを引き渡しました。そして今日の朗読箇所にあるように(27:12-13)、ピラトに尋問を受けたとき、祭司長たちの訴えに反論することもできましたが、そうはしませんでした。こうしてイエスは、最後まで神の愛に従う生き方を貫くことを選びました。

ですから、この受難の主日には、イエスがどうすることを選んだのかを思い起こすと同時に、それに応えて、私たち自身が何を選ぶのかも問われています。

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