メッセージ - A年 年間

福音の中で、水の上を歩きイエスのもとに近づこうとするが、強い風に気が付いて怖くなり、沈みかけてしまう。そこでイエスは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とペトロに言われる。

日常生活において、色々な悩みや恐怖に惑わされ、主の声、主の導きが分からなくなってしまうことが多い。そういった社会の中でわたし自身、何のために宣教師として生活しているのか、自分自身に問いかけることがあるが、召命や信仰生活が分からなくなった時、主は常に「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と語りかけているのではないかと、この箇所を読んで感じた。

しかしイエスを幽霊だと思い怯えた弟子たちに、イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と話しかけられた。そしてペトロが恐怖にとらわれ、沈みかけた時、主はペトロを助けられた。イエスは私たちに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と語りかけていると同時に、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と私たちのもとで語りかけているのだと感じる。私は人々との触れ合い、そして私が普段、信仰生活を送ることが出来るように助けてくださる多くの人々と、その優しさこそが主の助け、導きであると感じる。そしてイエスは生活の中でわたしたちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と話しかけているように思う。

私たちが人間である以上、恐怖を感じること、その恐怖を避けようとすることは、当然のことであるし、不必要に恐怖や混乱に身を投じることは勇気ではなく、ただの蛮勇であり、その人はただの命知らずである。しかし私たちが信仰生活を全うしようとするために、恐怖や悩み、困難に直面するとき、私たちは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言ってくださったイエスが、私たちを導いておられることを信頼しなければならないと思う。そしてその信頼の限りにおいて、私たちの社会、日常生活の中で「しるし」、「導き」が一筋の光として見えてくるのだと思う。そして主の助けによって、その導きへの一歩を踏み出す勇気を持つことが出来るよう、常に祈り続けたい。