メッセージ - A年 年間

福音朗読の「ぶどう園で働く人々のたとえ」(マタイ20:1-16)は、労働とそれに対する対価というこのたとえ話の要素自体に意識を奪われると、心から納得はできない、なんとなくもやもやする話です。夜明けから働いても昼から働いても夕方五時から働いても同じだけの賃金が払われてしまうのが当たり前になったなら、社会は崩壊してしまいます。

子供が良いことをしたら褒められ、悪いことをしたら叱られたり、良くも悪くも自分のしたことに応じてふさわしい報いがあると教えられるのは、この社会で生きていくために必要なことです。ただ、現実では必ずしもそうなるとは限らない、ということを私たちは知っています。真面目に生きている人が損をし、ふさわしくない人が運だけで得をすることがあるのが現実です。しかし、この福音のメッセージは、そんな「完全に公平・公正な社会はあり得ない」などという諦念ではありません。

「私は良い行いをしたからその分だけ価値がある人間である」、「正しい人間だからその正しさに応じて愛されている」、人間の尊厳をそんな小さな物差しで測る考えを根本から覆す、神の無条件の愛がここには示されています。私自身も、私の隣にいる人も、私が気にくわない人も、私が憎んでいる人も、皆そのままの有様で受け入れられている。何をしようがしまいが、神の前には等しく大切な存在である。そのことを受け入れる覚悟がありますか?そう問われているようです。

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