メッセージ - B年 四旬節

今日の福音では、マルコによる「主の変容」の場面が描かれている。私たちが四旬節の文脈でこの箇所を読もうとするとき、雲が弟子たちを覆い、神が言われたことをよく考えなければならないと思う。聖書における雲は、神秘の象徴であり、神の臨在のしるしとしても捉えられている。こうして現れた雲の中から、「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という声が弟子たちに聞こえた。ここに私たちが四旬節を過ごすためのメッセージがあるように感じる。

ところで本日の第一朗読では、アブラハムがイサクを捧げようとする場面が描かれている。イサクはアブラハムにとって、ようやく儲けることのできた息子であり、本当に愛していたということは容易に想像できる。現代でも家庭のある人々は、自分の子どもがいかに大事であるかということは容易に想像できると思う。神はアブラハムに対し、その息子イサクを捧げるように命じる。アブラハムは神を恐れていたが故に、その一人息子を捧げることを厭わなかった。そのため神はアブラハムを祝福したという話である。

福音書においても同様に考えることができる。父なる神にとって、イエスはアブラハムにとってのイサク同様、本当に「わたしの愛する子」であったのだと思う。しかしその神のひとり子は、私たち人類の贖いのために受難の苦しみを受けるにもかかわらず、人々を愛するがために、ひとり子をこの世にお遣わしになり、受難の道を歩もうとする「これに聞け」と言われた。

私たちもそれぞれが十字架を背負っており、主が愛するひとり子を捧げたように、そして「これに聞け」と言われたように、その苦しみを主に捧げる覚悟が必要である。洗礼を受けた私たちは、現代社会での生活と教会での教えとの矛盾で苦しむこともある。その中でも父なる神がイエスをお遣わしになったように、またイエスご自身が自らをお捧げになったように、私たちもイエスが貫いた愛を自分たちの生活の中でも貫かなければならない。その中で生まれる葛藤、苦しみが主に対する捧げになるように思う。

この四旬節において、私たちが、「これに聞け」と言われた父なる神のいったように、イエスに従うために、何を捧げることができるのか、今一度黙想し、自分の捧げを受け入れてくださるように神に祈りたい。