メッセージ - B年 四旬節

ヨハネ福音書全体を貫いているライトモチーフは、「光」「見ること」「信じること」です。色々な場面で、イエス様はこれらのイメージを用いて、口にしています。やはり、それぞれ切り離されているストーリーではなく、最後まで読んで初めて全体像が見えてきます。光と闇の戦い、世が光を拒んだ結果、光が世に打ち勝ったことはカルヴァリオの丘で頂点に達します。また、このイエス様との出会いと対立は、イスラエル人に始まる人類全体の経験であることが伺われます。

第1朗読からも分かるように、神は何度となく自分が選んで愛している民の救いのためにはたらきかけました。しかし、様々な措置を講じれば講じるほど、人々は神の招きを拒んでいました。その結果、「もはや手の施しようがなくなった」とあります。それでもなお、「神は憐れみ豊かな」方であり、「わたしたちをこの上なく愛して」くださる方であり続けます(第2朗読)。私たちの癒しのために何でもするほどの熱い愛に燃えています。

福音朗読では、銅の蛇の物語(民数記21章)を引用しながら、人々が神を拒んだ結果が描かれるとともに、神が救いの最高の手段を設けたことが述べられています。それはキリストの十字架です。砂漠でのイスラエル人は自然的な災害に悩んでいたのですが、イエス様が対象にしている人々は永遠に死ぬ危険に瀕しています。そのために、癒しの手段として高く上げられ(ヨハネ12:32)、刺し抜かれた様子を人々が見た(ヨハネ19:37)時にこそ皆癒されるように神は計画をしました。しかし、ただ十字架上のキリストを見るだけではなく、神の愛のしるしとして信仰と希望をもって見ることが必要です。それによって、今の時のあらゆる災害から守られ、いかなる病気をも免れるわけではなく、永遠の命を危うくする悪と絶望と無意味感から救われるのです。イエス様に惹かれ、従うことには誰も強制されたりはしません。ですから、この最高の愛の具現を拒んだ人々に裁き(や罰)が与えられるのではなく、そのようにすると決めた人々は自分自身を有罪判決にするということになります。

このヨハネが描いている信仰はただの気持ちではありません。確かに、人間の能力ではなく、神の恵みによるもの(第2朗読)ではありますが、その信仰が光となって「真理を行うこと」や「神に導かれてなされる」行為に繋がります。他の人の目を見えなくする眩しい光ではなく、周りをも照らし温め、イエス様を源として、分たれる命の光なのです。この世の闇と悪によって刺し貫かれたイエス様から目を離す度に、私たちはその闇に彷徨います。なので、今日の御言葉に励まされながら、常に十字架に目を凝らし、特に困った時や躓いた時に十字架を見上げましょう。

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