メッセージ - B年 復活節

使徒1:1-11; エフェ4:1-13; マル16:15-20

最近、大学一年生にイエスの生涯を紹介していた時に、学生から「奇跡が起こるとは思えない」、「イエスの復活や昇天は魔法のように聞こえる。本当にそのことが起こるとニュートンやアインシュタインは泣くだろう」など、科学に基づく常識や自然法則に反するようなイエスの話を信じることは難しいという反応がありました。その中で、「イエスの奇跡、復活や昇天などが本当に起こったかどうかは分かりませんが、イエスを信じる人々が『そうであって欲しい』という期待を持って語られているのではないか」と書いた学生がいます。

キリスト者にとって、イエスの復活や昇天が起こったかどうかという疑問は二の次です。そのような疑問は重要ではないという意味ではありません。それよりも、キリスト者にとって、主の昇天は弟子たちが体験する出来事を記念している中で、あの学生が言うように、イエスと同じように自分たちにも『そうであって欲しい』という希望、そして『そうである。そうなる』という信仰を表す出来事なのではないでしょうか。

今日の三つ朗読、それぞれイエスの昇天について伝えていますが、どれもイエスの昇天を独立した出来事としては伝えていない。そうではなく、イエスの昇天を救いの業全体(受難死、復活、昇天、聖霊降臨と弟子たちの派遣)の一貫として伝えています。イエスの生涯は受難と死につながる。死は復活とつながる。復活は昇天とつながる。昇天は聖霊降臨と弟子たちの派遣につながる、ということです。

つまり、昇天の日にイエスが天に昇られたのでこの世からいなくなったということを意味するのではありません。そうではなく、イエスが天に昇られるように、自分たちも天に昇られることが出来るという希望を持ちながら、聖霊に力づけられ、派遣されるということを意味するのです。昇天のお祝いは、第二朗読にあるように、今ここで自分に与えられた賜物を最大限に果たすという自覚を新たにすることにつながる恵みの時なのです。

主の昇天は魔法のような出来事、自然法則に逆らう出来事ではありません。また、単なる過去の出来事でもありません。主の昇天は、今ここに生きる私自身に関わる出来事なのです。