メッセージ - B年 年間

今日の福音書にイエスは、誰が一番偉いかと権威を争っている弟子たちに、一人の子供を抱き上げながら、「私の名のためにこのような子供の一人を受け入れるものは、私を受け入れるのである」と言われました。自分たちの間に誰が一番偉いか、誰が一番信頼される、誰が一番重要なポストに就くかと議論している弟子たちに、イエスは単に言葉で教えるだけではなく、わざわざひとりの子供を抱けあげながら、弟子たちに語りかけるのです。イエスは何を示したかったのでしょう。

「抱き上げる」というシンボリックな動作は、イエスの言葉にもあるように「受け入れる」、そして「祝福する」ということを表しています。子供を抱き上げながら、「私の名のためにこのような子供の一人を受け入れるものは、私を受け入れるのである」と言われたイエスが弟子たちに伝えたかったことは、彼らがお互いに受け入れなければならない、そして、お互いに祝福しなければならないということではないでしょうか。それを目に見える形で弟子たちに示していたのです。目に見える形で、「このように御父は愛する子を受け入れて、祝福するのです。このように、神様は人間一人ひとりを無条件に受け入れて、祝福するのです。だから、同じようにあなたたちも互いに受け入れて、互いに祝福しなければならない、ということをイエスは目に見える形で弟子たちに示したかったのではないしょうか。

ところで、お互いに祝福するということはどういう意味なのでしょうか。英語には、to bless という言葉があります。これは、ラテン語のbenedicereという言葉がそのルツになっているそうです。Benedicereは、bene(良い)とdicere(話す)の二つの言葉からなっています。つまり、誰かを祝福するということは、その人について良いことを話すということです。子供を抱き上げたイエスが弟子たちに示したかったことは、弟子たちの間で、誰が一番偉いか、誰が一番正しいか、誰が一番ふさわしいかと議論するのではなく、互いにありのままに受け入れて、お互いの良いことを話して、お互いに祝福しなければなりません。お互いが神の愛する子だからです。

しかし、私たちが日常生活の中で体験しているように、積極的に人を祝福し、積極的に他人について良いことを語ることはそう簡単なことではありません。それよりは、人の悪口をしたり、人の欠点を追求したりする方が多いかもしれません。

心から人を祝福するためには、自分自身が祝福されるものという確信を持つ必要があると思います。マルコ福音書のイエスの話は洗礼の場面から始まります。その時に、天から「あなたは私の愛する子」という神の祝福の声がありました。私たち日常生活の中で「あなたは私の愛する子」という神様の声を祈りや様々な体験を通して聞く必要があります。自分は神の愛する子と確信を持っている人だけが、心から人を祝福することができます。

子供を抱き上げるイエスはそれを弟子たちに、そして私たちに教えようとするような気が致します。