メッセージ - C年 年間

今日の第一朗読のナアマンや福音朗読のサマリア人の気持ちは、私たちもよく分かると思います。身体的な苦しみに加えて、人からも遠ざけられ、蔑まれ、死んだもの扱いとされる時に、誰かがその苦しみから救ってくれると、その喜びは計り知れないでしょう。イエスの足元にひれ伏したあのサマリア人の気持ちはよく分かります。しかし、重い皮膚病から清くなったのはあのサマリア人だけではありません。他の9人も同じ奇跡を体験し、皆清くなったはずです。彼らも喜びにあふれているはずです。しかし、彼らは感謝するためにイエスのところに戻ってくれませんでした。「他の9人はどこにいるのか。この外国人の他に、神を賛美するために戻ってきた者はいないのか」ということばの中に、イエスはその10人全員が戻ってくることを期待しているのが分かります。しかも戻ってくるのは、もとからユダヤ人に見下されたサマリア人です。しかし、最終的にイエスはそのサマリア人にだけ「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と宣言しました。体が清くなったのは全員だったのですが、そのサマリア人だけが本当の救いを体験したということです。

今日の福音箇所の出だしにあるように、この出来事は「イエスがエルサレムへ上る途中」で起こりました。エルサレムで、イエスを待っているのは受難と死なのです。その死は全ての人の罪とけがれを清めるための死であり、全ての人の救いのための死なのです。その死によって、私たち一人ひとりの罪とけがれが清められるのです。私たちを他人からだけではなくて、神様からも遠ざける罪とけがれを取り除いてくださるのです。例外なく、全員、全ての人、全人類・・・。

そうであるならば、あのサマリア人に学んで、ゆるされるものとして、清められるものとして、救われるものとしてイエスのところに戻り、感謝することを決して忘れてはならないのです。「救い」と「感謝」は切り離せないものです。あのサマリア人が体験したように、今与えられた命を感謝する人だけが「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」という救いの言葉を聞くことができるのです。