メッセージ - C年 年間

私たちは皆生きている間必ずなんらかの「苦しみ」を背負っています。しかし、その苦しみが「絶望」を生むのか、それとも「希望」を生むのか、両方の可能性があります。その分かれ道はどこにあるのでしょうか。それはその苦しみの「理由、原因」が分かるかどうかというよりは、その苦しみの中に「意味」を見いだせるかどうかということです。ヴィクトール・フランクルが言うように、「絶望とは意味なき苦悩です」。アウシュヴィッツ強制収容所で彼が体験したように、究極の苦しみの中にあって「なぜ、こんなことが自分に起きたのか」とその「理由」は分からなくても、この苦悩には何らかの「意味」があると気づいた時に、人はその苦しみを耐え抜くことができます。

ところで、ペル人の解放神学者グスタフ・グティエレス(ドミニコ会の司祭)によれば、世の中には二種類の人間がいると言います。一つは、希望を探している人々あるいは希望を見つけようとする人々です。もう一つは、キリスト者です。両者には大きな違いがあります。多くの人は日々一生懸命に希望を探して、見出そうとしています。キリスト者は希望を探しているのではなく、希望を持っています。キリスト者は生きている希望です、歩いている希望です、と解いています。

もしそうであるならば、キリスト者としての使命は正に世界にその希望を伝える、証することではないでしょうか。第一朗読の七人兄弟とその母親のように死を前にしてもその希望を持つことができるのは、その死には意味があるからです。あるいは、第二朗読の使徒パウロの言葉を借りれば、私たちには「永遠の慰め」「確かな希望」を既に見出しているからです。それは「復活」という希望です。まさに福音の言葉にあるように、私たちの「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」だからです。キリスト者にとっての確かな希望、永遠の慰めは神が用意してくださる「復活」に他なりません。復活への希望をもって生きているのがキリスト者というものではないでしょうか。