メッセージ - A年 待降節

待降節第三主日の今日の福音では、洗礼者ヨハネについてイエスが群衆に対して教えている場面が描かれています。イエスはヨハネの弟子たちに預言者イザヤの預言を用いて、自らの行ったわざを通して、預言の成就がされていること、すなわち自らが救い主であることを示し、その後に群衆たちにヨハネについて教えています。この中でイエスは群衆に「あなたがたは、何を見に荒れ野に行ったのか」と問いかけています。この場面は洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を授ける場面を我々に想起させます。洗礼者ヨハネは来るイエスを迎えるために洗礼を授けますが、その洗礼は荒れ野に集まるいわゆる「罪人」のためであり、来るイエスも罪人とみなされていた、小さな人々のために来られることをその中で示します。その意味で洗礼者ヨハネは、小さな人々のために来られるイエスを宣べ伝える預言者以上の預言者であるとみなされています。

私たちもこれからクリスマスを迎えるわけですが、私たちはイエスを迎えるにあたって、イエスの降誕に「何を見るのか」、どこに喜びを見出すのかということを問いかける必要があると思いますが、その喜びが小さな人々と共にあるということを、忘れてはならないだと思います。わたしたち自身もイエスの降誕に喜びを見出す必要があると思いますが、如何にして小さな人々と共にその喜びを見出すことができるかということが、待降節にあたって私たちがイエスを迎える準備として必要になるのではないでしょうか。わたしたちは待降節にあたって、それぞれが祈りや犠牲を行うと思いますが、その行いを通して、洗礼者ヨハネが行ったように、わたしたちも小さな人々のことを思い起こし、その人々と喜びを分かち合うことこそ、わたしたちがクリスマスを迎えるにあたって必要な準備になるように感じます。