メッセージ - C年 年間

人生において、人間として、日常生活において私たちは「目に見える富」すなわちお金、名声、健康、時間を手にしているのではないかと思います。その一方で、私たちは「見えない財」すなわち愛、幸福、平和、そして永遠の命への希望も必要としていることでしょう。もちろん、両方とも、私たちが人生で満たすべき必要不可欠なものです。しかし、もし一方を優先し、もう一方を無視したらどうなるでしょうか?ここで私たちは、永遠の命にとって最も重要な要素を注意深く見極め、評価しなければなりません。なぜなら、巡礼者としての人間にとって、人生の最終目的は世俗的なものではなく、天における永遠の命だからです。では、永遠の命を受けるために何をすれば良いでしょうか。

今日の聖書朗読箇所は、「愛と隣人への思いやり」について深く描かれています。第一朗読では、預言者アモスが傲慢な人々を厳しく戒めています。彼らは自己満足のために楽しみを追い求め、他者の苦しみに無関心でした。第二朗読のテモテへの手紙において、パウロは神の命令に従って生きるよう助言しています。その命令は愛、忍耐、そして信仰における持続性を強調し、イエスが自らを現すまで続けることを求めています。同時に、ルカによる福音書では、イエスは、金持ちとラザロのたとえ話を用いて、弟子たちに神の国の価値、すなわち貧しく苦しむ隣人への愛と配慮について教えました。隣人への愛と配慮を伴わなければ、この世の富は永遠の幸福をもたらさないことをイエスは強調しました。

人生において、私たちはしばしば物質的な面でも、精神面においてもラザロのような人々にたくさん出会います。彼らは苦しみ、貧しく、弱く、社会から疎外され、不正や抑圧の犠牲となっています。まさに彼らに対して、私たちはイエスの弟子として、心の目を開き、時間と関心を捧げ、愛と慰めを実践するよう招かれているのです。この世での生活の中で、 隣人への愛の種を蒔き、分かち合うことで、私たちは永遠の命のための貯えをし、天の喜びの礎をしっかりと築いているのです。それゆえ、今日なすべきことを先延ばしにしてはなりません。なぜなら、永遠の喜びは死後のことではなく、今この瞬間、この地上で私たちがすでに、あるいは、今まさに実践していることの中にあるからです。この人生は、神が与えてくださった善を行う機会であり、隣人への愛を示す機会です。ですから、私たちの思いやりを通して、隣人への祝福の器となりましょう。