メッセージ - A年 年間

あなたは幸いだ

コンディ・ニコラウス

幸せとは、一体何でしょうか。その答えは、おそらく人それぞれ異なるでしょう。なぜなら、人はそれぞれ自分なりの幸せの基準を持っているからです。ある人にとっては、車や家などの物質的な豊かさが幸せの条件かもしれません。別の人にとっては、安定した収入や仕事の充実、家族や友人との温かい関係が幸せの源になるでしょう。約40年に渡り、神言会フィリピ人中央管区・ミンドロ島に住む少数民族マンギアン族の人々の間に宣教活動をしてきた一人の年配の神言会神の神父に、「宣教師としての幸せは何ですか」と尋ねれことがあります。するとその神父は「マンギアン族の人々と共に生活することが、私の宣教しての幸せです」と答えてくれました。

おそらく私たちが置かれている状況や環境によっても、幸せの感じ方は変わります。健康な体を持っていることのありがたさを感じる人もいれば、困難な状況を乗り越えた経験の中で小さな喜びを見つける人もいます。つまり、幸せとは一つの形や基準で決まるものではなく、私たち一人ひとりの心のあり方や置かれた環境によって、それぞれ違った形で現れるのではないかと思います。

日のマタイ福音書に記されている、いわゆる「山上の説教」の最初の部分では、イエスがこう語れます。「心の貧しい人々は、幸いである。天国はその人たちのものである」。果たしてこのイエスの呼びかけは、どういうことなのでしょうか。実際、イエスの周りに集まってきた人々は、貧しい人たちでした。経済的に困窮している人、病気の人、障害を抱えた人、身寄りのない人、さまざまな理由から社会の中で自分を主張する手段を持たない人々。惨めな思いをし、見捨てられ、後回しにされ、情けない気持ちを抱えながら生きていかなければならなかった人たちです。

そのような人々に向かって、イエスは「心の貧しい人々は、幸いである」と。「心の貧しい」という日本語は、一般には「精神的な貧しさ」を意味することがありますが、ここでイエスが言われているのは、そのような意味ではないと思います。この言葉は、「霊において貧しい」「神の前に貧しい」という意味として受け取るとよいでしょう。ちなみ「心の貧しい人」とは自分の力に頼るのではなく、神にのみ寄り頼む人のことです。また神なしには生きられないことを知り、謙遜に神に委ねることです。そのような人こそが「幸い」なのだ、とイエスは語っておられるのではないかと思います。またイエスの「幸いの言葉」は、将来いつか現実する理想的なものを語っているのではありません。イエスに従って生きる人々の間で、すでに起こっている現実をイエスご自身が見つめ、言葉にされたのです。

結局、信仰者にとって幸せとは、物質的な豊かさや外的な状況だけで決まるものではありません。それは、神との正しい関係の中に生き、神の御心に従い、心に平安と感謝を持って歩むことから生まれます。たとえ困難な状況にあっても、人生が神の導きの中にあり、より大きな目的があると信じることで、幸せを感じることができます。信仰に基づく心の平安と希望、そして愛こそが、キリスト者としての幸せの根源なのではないでしょうか。

イエスは、心の貧しい私たちのために来てくださいました。今日も、イエスは私たち人一人に語りかけておられるのではないでしょうか。「あなたは幸いだ」と。この呼びかけを素直に受けとめ、与えられている恵みを感謝しながら、それぞれに与えれた役割を果たしていくことができますよう、共に祈り求めてまいりましょう。