メッセージ - A年 四旬節

命の水

すべての人、皆さん誰でも必ず喉の渇きを経験したことがあるでしょう。とても喉が渇いた時、身体が必要とするのはただ一口の水はないかと思います。もし水がなければ、脱水症状や疲労、さらには死に至ることは想像に難くないでしょう。このような場合、水は人間の肉体的な渇きを癒すことができるため、非常に貴重なものとなります。しかし、落ち着いて考えてみれば、人間の心の中には、肉体的な渇きよりもはるかに深い渇きがあります。それは愛への渇き、平和への渇き、赦しへの渇き、そして人生の意味への渇きです。

朗読箇所の御言葉の中で、神が命の水として深く描かれています。ヨハネの福音書では、イエスがヤコブの井戸でサマリヤの女と出会う場面が語られれています。イエスとこの女との対話の中で、イエスはサマリヤの女に、枯れることのない永遠の命の水を差し出しました。なぜでしょうか。イエスはサマリヤの女が抱える渇きを知っていたからです。その渇きは、単なる肉体的なのどの渇きではなく、愛、赦し、平安、そして新しい命への渇きでした。この神の御提案に対し、サマリヤの女は謙虚さと開かれた心をもって神の招きを受け入れ、それは、やがて彼女の人生に真の満たしをもたらすこととなるのです。

日常生活において、私たちはしばしば地位、富、成功の中に満足を求めます。しかし、結局のところ、それらはすべて一時的なものであり、真の満足と安らぎをもたらすものではありません。要するに、人間の心は求めるものを手に入れてもそれで満足することはなく、依然として空虚さ、孤独、生きる疲れを感じています。この渇きに満ちた現実世界の中で、神は私たちを、体だけでなく心を満たすための命の水である御自身のもとに招いておられます。その水は枯れることがありません。神は私たちが今経験しているあらゆる渇きを癒してくださいます。また、神は私たちの言葉、思いやり、分かち合う愛を通して、私たちを他の人々の渇きを癒す命の水の源としてくださいます。四旬節は、祈り、断食、御言葉に耳を傾けながら、あらゆる罪から自らを清め、開かれた心で命の水の源へと戻るのにふさわしい時です。命の水の源であるキリストが、私たちの心の渇きを満たし、私たちを他者への祝福の源としてくださいますように。