釈義 - B年 待降節

第一朗読:イザ 63,16-17.19;64,3-7

第二朗読:一コリント1,3-9

福音朗読:マルコ13,33-37

第一朗読の言葉はバビロニア捕囚後の時代が背景となっている(紀元前6世紀)。バビロニアへ連れて行かれたユダヤ人たちは壊されたエルサレムとエル サレム神殿に戻った。そしてその理由と意味を考え始めた。第三イザヤと呼ばれる著者にとってその国民的な惨事の理由はユダヤ人たちの罪と神に従わない行い である。起こった惨事は神から貰った罰であると著者はおもっていた。けれども、ユダヤの国民は神の者たちである。だから、神は父のようにユダヤ人を教育す る。自分の子供を守りながら必要な時に罰も与える。

この手紙はパウロが困難な時に書かれた。コリント教会の信者がお互いに議論し、分裂的な道を歩いていた。この手紙の目的はコリント教会の一致を守る ことであった。挨拶の部分の中でパウロは二つのことを強調している。まず、かみは我々の父だということである。この父からすべての恵みをいただいた。次 に、イエスは我々の主だということである。彼の業おかげで我々は救われた人々となった。

イエスの来られる日についてすべての共観福音者は同じ考えを持っている。いつその日が来るかその日が来るまでどのように信者らしい生活をするかという質問に答えられるように考えておいたほうがいいだろう。