釈義 - B年 待降節


第一朗読:   イザヤ61,1-2a.10-11
この言葉の著者はよく分かっていないが「第三イザヤ」と呼ばれる預言者であった(イザ56-66)。彼はバビロニア追放後に預言者的な活動をしました。この活動はイスラエル国民が自信を取り戻し、再び気持ちを強く持てるようにするための政治的な活動でした。彼の教えによればイスラエルの栄光にあふれる将来はすべて神の愛の業です。
福音者ルカはイエスがメシアであるということを示すためにこの言葉を使いました(ルカ4,18-19)。ルカの福音書の中でこの言葉は宗教的な意味を持ちました。

 

第二朗読:   1テサ5,16-24
第一テサロニケ使徒への手紙を書く理由は一つだけではありませんでした。さまざまな理由の中で終末論的な理由、イエス様が再び来られる日について、がありました。テサロニケ教会の信者はイエスがすぐ再来すると思っていましたが、ある信者が亡くなった後でイエスの来られることを疑い始めました。この問題を正すためにパウロはイエスの来られる日の待ち方について説明しました(1テサ5,16-22)。
我々は、信者として終末的な時期に生きているのでパウロの教えの通りイエスが来られる日を待たなければなりません。

 

福音朗読:   ヨハ1,6-8.19-28
福音者ヨハネによれば洗礼者ヨハネは自分自身と自分の活動の目的をよく分かっていました。メシアではなくメシアを現れさせるために必要な準備ができるように選ばれただけの人であるということを理解できました。彼は、イエスが全国民の前に現れることを待っていました。我々は、信者としてイエスが再び来られる日を待っています。