釈義 - B年 四旬節

第一朗読:  創世記22,1-2.9a.10-13.15-18

この言葉は聞いている人を驚かせる。本当に神はアブラハムにそのようなことを望んだのだろうか。アブラハムは、せめて自分の手でと思った。そして、創世記の著者に「神はアブラハムを試練に会わせられた」と言った。このことの目的は、イサクの命を取ることではなく、アブラハムが祝福されるために必要な試練を与えることであった。将来イスラエル国民の父、そして信仰の父になるアブラハムはどこまで神を信頼できるのかが試された。

第二朗読:  ローマ8,31b-34

パウロは信仰による義について(ローマ4-7)説明をした後で「神が私たちの味方であるなら、 だれが私たちに敵対できるでしょう」と言った。この言葉が真実であるということを証する神の業は、イエスの受難と復活により人間の罪を許すことである。人間の人生は人間のことではなく、その人生を救うことは神の業の目的である。どこまでこの言葉を信頼するか。

福音朗読:  マルコ9,2-10

ユダヤ教の信者にとって、エリヤというのは預言者の代表である。彼の活動のおかげでユダヤ人は唯一神の信仰を守った。ユダヤ教の信者にとってモーセというのは律法の代表である。彼は神から貰った律法をイスラエル国民に伝えた。律法と預言者はユダヤ教の聖書と呼ばれている。山の上でイエスはエリヤとモーゼに会った。この事件の意味は、イエスが旧約聖書(ユダヤ教聖書)の約束を果たすために神によって送られた方だということである。約束を果たすということは、人間に救いを与えることである。そのためにイエスは自分の命を捧げた。イエスはそこまで神を信頼した。