釈義 - B年 四旬節

第一朗読:     イザヤ 50,4-7

この言葉は第二イザヤ(イザヤ42-55)と呼ばれる預言者によって書かれた「第三主の僕賛歌」(イザヤ50,4-9)の一部である。この頃の歴史的背景はバビロニア捕囚の時代である(紀元前6世紀)。その大変な時期にあるユダヤ人たちは希望と信仰を失い始めた。だから、著者が主の僕として忍耐と信頼の内に慰めの言葉を述べ伝え続ける。この活動をする間に彼は迫害されたが神を信頼することを諦めなかった。イザヤ50、1-9とイザヤ52、13-53は新約聖書のイエスに関連する(マタ26、67;27、30)。

第二朗読:     フイリピ2,6-11

この言葉はキリスト教典礼の賛歌から取った引用文であると考えられる。この賛歌は旧約聖書の預言と関係している(ダニエル7、13とイザヤ52、13-53、12)。この賛歌には二つの部分がある:イエスが「ご自分を無にして」(フイリピ2、6-8)という部分と、神様はイエスを「高く上げて」(フイリピ 2、9)という部分である。この賛歌のキリスト論的な教え:イエスは神である(2、6)

イエスは人間になった(2、7)

イエスは受難された(2、8)

イエスは主である(2、9-11)。

この手紙の中のフイリピ2、6-11の目的は信者たちを正しい行いと従いについて説明することである。

福音朗読:     マルコ15,1-39

十字架に付けられたイエスは「 エロイ、 エロイ、 ラマ、 サバクタニ」 と叫ばれた。 それは訳すと「 わが神、 わが神。 どうしてわたしをお見捨てになったのですか」 という意味である。この言葉は詩篇22から取った引用文である(詩篇22、8)。この詩篇は迫害されている方の賛歌である。迫害される時に彼が信仰と希望を失わず、神を信頼した。神だけが彼を救う力があるということを強く信じて行った。