メッセージ - B年 年間

「イエスは人々の不信仰に驚かれた」(マルコ 6:6)

イエス様は神としてすべての人の救いを望み、その愛は、相手によって違う表現で現したにしても、皆を真の愛で包んでいたことでしょう。キリストは神性と人生の両面を持っていました。人間であるイエス様は育てられた故郷の家族や親類、子ども時代に一緒に遊んでいた友達などについて特別の思いを持っていたに違いありません。ナザレトで、マリアと大工の息子と呼ばれ、ただの人間と見なされた青少年のイエス様は、彼らによって受け入れていたが、この度、神様の身分を持って来られると、自分の故郷で受け入れられませんでした。ナザレ人の不信仰とは、イエス様が偉大な預言者、救い主であるという評判を聞いても、キリストの内に働く神の業を否定することです。ナザレ人は、イエス様と世俗的な次元で親しみを持っていたからです。イエス様の中に見出せないので、したがって、彼らは神様との親しい関係を持ちたくないという結果になりました。

信仰の中では、神様と親しい関係、神様との一致の内に生きるということが大切です。キリストを信じることは、イエス様を神と認め、キリストを受け入れることによって神様との親密関係を作り上げていくことです。キリストを受け入れることは、その教えを聞き入れ、それに従って生きることであり、また、秘跡(特に御聖体)の内に、キリストを自分の心に住まわせることです。

キリストと親しくなる際、私達はナザレ人の過ちを犯さないように気を付ける必要があります。神の子キリストは、人知を遥かに超え、けっして私達の世俗的な考えによって決め付けられた方ではありません。また、キリストと親しむことによって、私達にはその存在を軽視することを許されません。私達は、自分の考えるキリストではなく、実際に生きているキリストを捜し求め、受け入れる必要があります。そうすれば、キリストが私達の不信仰を驚くのではなく、私達は自分の内におられるキリストの愛と偉大さを驚くことでしょう。