メッセージ - B年 年間

「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネ6,27)

パンは、イスラエルの人々にとって、日本のご飯と同じような日用の糧です。食べ物を得るために人は働かなければなりません。人は種を蒔いて収穫し、パンを作って売ったり、買ったりしています。エジプト奴隷の時代のイスラエルは、パンを得るために重労働をし、また大金を払ってパンを得ることでした。それによって、人は自分の命が自分の働きによって支えられていると思っていました。しかし、それは不自由な人(“奴隷”)の考え方であると聖書は示します。

聖書によると、神様は人間に真の自由を与える方で、人が自由に生きるように教え導かれます。エジプトから解放されたイスラエルの民は、地上の次元で考えると、砂漠の中で金を稼ぐことがなく、種を蒔くこともパンを作ることもせず、不自由をたくさん味わっていました。しかし、神様がマナを降らせて、イスラエル人は、働くことも、代価を払うこともなく、それを自由にとって食べることできました。彼らが体験した新しい自由とは、エジプトの奴隷から解放されたということよりも、神様と共に歩むことによって生かされているということです。イエス様は、このパン(マナ)をモーセが与えたのではなく、神様は「天からのパン」を降らせて民を生かしているのだと強調します。

この地上で、日用の糧を自由に食べても、私達の自由を最終的に奪うのは、罪と死です。イエス様はこの世に来たのは、御自分の死を持って私達の罪を滅ぼし、御復活をもって死に打ち勝ち、私達に真の自由を与えるためです。この意味でイエス様は、永遠の命の糧として、最後の晩餐の時、死に引き渡されて復活された御自分の体を命のパンとして私達に与えてくださり、これを頂く人に神の子供としての自由を与えてくださったのです。「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」というイエス様の言葉は、私達が神によって生かされていることを悟り、この恵みを消極的に頂くのではなく、御聖体の秘跡の内におられるキリストを自分の心に住まわせ、その救いの業に参与するようにと招くものです。したがって、御ミサの時に司祭がパンを神様にささげる時に次のように祈ります。「神よ、あなたは万物の造り主、ここに供えるパンは、あなたから頂いたもの、大地の恵み労働の実り、私達の命の糧となるものです。」