メッセージ - B年 年間

 

「人若し我に従はんと欲せば 己を捨て 十字架をとりて我に従ふべし」マルコ 8:34

以上のみ言葉は、長崎西坂の日本二十六聖人記念碑に刻まれており、それは、本日の福音の中心的なメッセージになっていることでしょう。

日本二十六聖人は、禁教令に背いたから死刑を受けて殉教したわけではなく、死の間際まで生と死の間に選択がありました。もし、彼等はキリストに対する信仰さえ捨てれば、殉教をしませんでした。しかし、殉教者たちは、最期までキリストに従いたいと思ったから、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」(マルコ8,34)キリストを信じる者に定めた殉教の死を自ら選んだのです。

キリストは福音の中で、私たちをこの信仰に段階を踏んで導いてくださいます。

*最初にイエス様は弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」(マルコ8,27)と尋ねます。これは、人からキリストについて学ぶ段階を示します。学んだ人は、キリストを知ることも、自分の信仰を持つのではなく、他の人がキリストについて考えて信じる人間の偏見に基づいて場合によって歪曲されたキリストの像を知るようになります。その人々が祈りをしたとしても、それは、キリストを心で意識しないで祈るならば、他の人が作った決まり文句を口先に唱えるだけです。

*次に、イエス様は弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だというのか。」(マルコ8,29)と質問します。キリストと共に生き、共に時をすごしている信者は、キリストとの固有な出会いがあり、キリストとの人格的な交わりをもってお祈りをします。しかし、この段階も不充分です。使徒ペトロがキリストとの対話の中で、キリストから「サタン、引き下がれ」(マルコ8,33)と言われました。何故なら、ペトロは、自分の人間的な考えをキリストに押し付けようとしていたからです。

*究極的に、イエス様がわたしたちに求めているのは、キリストが御自分を無にして死に至るまでわたしたちを最大の愛で愛してくださったように、わたしたちも主の愛に応えて、自我に死に(自分を捨て)、御旨に従ってキリストの愛を生きることです。その結果として、わたしたちは、世俗な価値観をもって考えて生きるのではなく、「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛する」という本ものの信者となり、使徒パウロの言葉を借りますと、「生きているのは、もはや わたしではなく、キリストが わたしのうちに生きているのです。」(ガラ2,20)と言う信者となるのです。